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  • ふるさと:二宮/寺山進@クラス1955

    まえがき
     高橋兄の投稿写真「吾妻山の菜の花」へのコメントを書いている間に、昔の事が懐かしくなってきた。そこで小生の本籍地、昔は吾妻村と云っていた二宮町と、少年時代の思い出について紹介してみたい。

    吾妻の由来
     日本武尊の東征時、走水(はしりみず)即ち現在の浦賀水道から上総に向かう途中で、海神の怒りにふれ、大嵐で船が沈みそうになった。その時妃の弟橘媛が、自らを海神に捧げて海を鎮めた。 
     浜に流れ着いた媛の櫛を手にした武尊は裏山に登り、丁度高橋兄が写真を撮った辺りから海を眺めて「あづまはや」(ああ、わがつまよ)と云って妃を偲んだ。これが地名の由来である。公園の下にある吾妻神社には弟橘媛と櫛が祀られている。

     二宮のまち
     気候温暖、風光明媚、海や山の幸に恵まれ、非常に住み易い処である。昭和の半ば頃までは、平均年齢が日本一高く、今でも町は「長寿の里」と宣伝している。
     小学校の担任の先生は「二宮からは偉人が出ない」と嘆かれていた。「ぼーとしていても何とか生きていけるから、向上心が無い」のだそうだ。今この事を思い出したので、Wikipediaで二宮出身の有名人を調べてみた。鈴木という自転車の選手、諸星という学者、二人とも小生は全く知らない。次の萩本欽一氏、いわゆる「欽ちゃん」は良く知っているが、(東京出身、住居が二宮)と注記してあったのには大笑いした。よくよく有名人が出ない町のようである。     

    担任の先生
     先生は又、二宮の地名にもご不満だった。本来は川勾神社が「相模国一之宮」だったのに、昔からお人好しなので寒川神社に取られてしまい、「二之宮」に甘んじている、というのである。一方で反骨精神の人でもあった。戦争中の軍歌合唱の時間に、突然シューマンの「流浪の民」を朗々と歌い上げて、生徒たちの目を白黒させた。教頭にもならずに引退された先生は、結局のところ「二宮人とその生き方」を愛されていたのだと思う。その教え子の小生も「偉人」からは程遠い人生の、終末期に差し掛かっている。

     ガラスのうさぎ像a.jpg
     「ガラスのうさぎ」記念碑
      (Wikipediaより)

     ガラスのうさぎ
     二宮を有名にしたのは、この作品及び著者の高木敏子氏(旧姓:江井)であろう。二宮駅の南口に記念碑が建っている。江井さんは小生と同期に二宮小学校を卒業しているので、少なくとも欽ちゃんよりは「二宮出身」と云えない事もない。 しかしご本人は疎開で一年余り住んだだけ、しかも目の前で父上が米艦載機の機銃掃射の犠牲になるという過酷な経験をしている。辛い思い出の「二宮出身」はご免蒙りたいだろう。
     
     もう十年以上も前の事になる。小学校の旧友から突然、五十年ぶり位の電話があった。「一度位、同窓会に出て来いよ。この前は、ガラスのうさぎが初めて出席した。君の事を覚えていて“どうされていますか”と聞かれたぞ」と誘われた。
    六年生になった昭和十九年四月、多くの生徒が東京や横浜から縁故疎開で転校してきた。小生は全く記憶に無いのだが、転入生の方は「ノッポの級長さん」を覚えてくれていたらしい。早速次の年には出席してみたが、江井さんは欠席だった。しかし、懐かしい友人たちとの会話が弾んで、アッと言う間に時間が過ぎた。続けて出席する積りだったが、直後に幹事役の旧友が早逝し、同窓会自体が立ち消えになってしまった。
    無理をしてでも早くから顔を出しておけば良かったと、今更のように悔いが残るのである。

    2 Comments »
    1.  川崎市高津区に、日本武尊と弟橘媛を主祭神とする神社があります。橘樹(たちばな)神社と言います。この神社の社伝によると「日本武尊東征の際海が荒れ、弟橘媛はその身を投じ海を鎮めた。やがて入水した媛の御衣・御冠の具だけがこの地に漂着した」とあり、また古事記でも「かれ七日ありて後に、其の后の御櫛海辺によりたりき。すなわち、その櫛を取りて御陵を作りて治め置きき」と伝えられているようです。
       この神社は高津区の「たちばなの散歩道」の中にあり、同じく富士見台古墳もあり、この古墳が弟橘媛稜であるという説があります。
       この辺一帯は江戸から続く中原街道が丸子の渡しで多摩川を越えた最初の台地にあたる場所です。現在の多摩川や溝の口辺は海底でこの台地辺りが海に面していたとされていますので、この辺に漂着したと言うのも信じて良いかも…。
       因みに川崎市のこの辺一帯は昔、武蔵野国橘樹郡(たちばなのこおり)と呼ばれ、現在の宮前区は橘樹郡宮前村だったと言うことです。
       弟橘媛の櫛が漂着したのは二宮町だったのか、橘樹郡だったのか興味があります。いずれにしても貴兄とは何処かで不思議な縁で繋がっているみたいですね。

      コメント by 高橋 郁雄 — 2010年3月1日 @ 11:36

    2.  弟橘媛が入水したのは走水から上総へ向かう途中ですので、多分現在の東京湾フエリーの航路上でしょう。櫛が三浦半島を大回りして相模湾の奥に達した可能性よりも、橘樹郡に着いたという方が現実的に思えます。小袖が流れ着いたという袖ヶ浦を始め、東京湾内には媛の漂着伝説が各地にあるようです。
       「あずまはや」の言葉も古事記では「足柄峠」での発言とされています。稜も存在せず単なる言い伝えしか残っていない二宮説は、文献学的にも弱いのは認めざるを得ません。
       しかし、海上保安庁海洋情報部の海流・潮流のデータを見ますと、東京湾は潮の満干に応じて海水が出入りしますし、相模湾はかなり複雑な海流の動きをしますが、櫛が二宮迄到達しないとは断言出来ません。
       櫛を手にした日本武尊が直に裏山に登って媛を偲んだと云うのは、いかにも人間的で共感出来るのではないでしょうか。
       「東国征伐を終えてこの地を去る時に、遠征の成果と合わせて媛を思い出した」と云うような古事記の記述は、「迫りくる猛火の中でも自分の身を案じてくれた尊の為に」と一身を投げだした媛の気持ちに充分に応えていないように思われます。

      コメント by 寺山進 — 2010年3月3日 @ 16:24

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