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  • ベルリンの壁崩壊から20年に当たっての思い/新田義雄@クラス1955

     2009年11月9日は、ベルリンの壁崩壊から20年に当たり、回顧などがメデイアを賑わしていたので思い出した人も多いと思うが、


    私も当時の興奮をあらためて思い起こした。

     翌日の月曜日から、先方の西ドイツ(当時の言い方)の会社との会議のため、1971年11月14日(日曜日)の午後、寒くそして暗く雲の垂れ込めたベルリンのテンペルホッフ空港(ヒットラー時代に建設された当時としては最先端の大空港で、戦後、ベルリン大空輸で活躍した。)に降り立った。
     ここに到着するまで結構な時間がかかった。即ち、東西冷戦の真っ只中であったので、西側の旅客機がソ連の上空を通過だけで飛ぶことは許可されておらず、またジャンボ機も就航したばかりで一般化されておらず、したがって日本からヨーロッパへ飛ぶには、南回りか、北極上空を飛ぶ北回りの航空路であった。その上、西ベルリンはある意味では特別な地域であり(東ドイツ内の西側の飛び地)、西ドイツから飛ぶ航空会社は、米英仏の3社に限られていた。このときは北周りで、SAS機で羽田―アンカレツジ―北極上空を通ってコペンハーゲンへ―AF機でハンブルグへ―BOAC機でベルリンへ の経過で漸くの思いでベルリンに到着した。

     先方の西ドイツの会社から迎えの車が来ており、それに乗り早くホテルに入って翌日からの会議に備えようと思っていたところ、なんと着いたところは、ブランデンブルグ門の前の壁、いわゆるベルリンの壁(die Mauer)の前であった。延々と続く壁を見たときのショックは忘れることが出来ない。人間を、二十日鼠ではあるまいし囲いで囲むとは何たることかと大きな衝撃を受けたものだった。
     ちょっとした展望台が作ってあり、それに上ってみると、壁の向こうのブランデンブルグ門の先に、東ベルリンのひっそりとしたビル街が見えた。壁に沿って点々と東ベルリン側の望楼が立っており、銃を持った衛兵がこちらを監視していた。また、壁のこちら側には、ベルリンへ最初に突入したソ連の戦車が、これ見よがしに置いてあった。その日は、前夜、その戦車の陰から東ベルリンの望楼に向けて発砲事件があったとかで、調査で物々しい雰囲気であった。
     壁は、戦車でも一気には突き破れないと思われる厚い鉄筋入りのレンガの壁で高さは3~4mぐらいあり、上部にドラム缶状の物を横に並べたように置いてあった。ドイツ人の説明によると、壁にやっとの思いで這い上がってそのドラム缶状の物にしがみ付くと、それが手前に回転し結局手前に落ち、望楼からの監視兵に射殺されるとの事であった。
     壁に、チョークのようなもので、大きく「67」と書かれてあった。それは、それまでに東ベルリンから壁を登って脱出しょうとして射殺された人数との事であった。
     やがて興奮冷めやらぬ中、ホテルに入ったことを覚えている。
     
     ベルリンといえば、ヒットラー時代から将に第二次世界大戦の象徴のような位置をしめ、特に末期の市街戦の壮絶さは筆舌に尽くしがたいものがあったと言われている。私が行った当時はすでに戦争を感じさせるところは、全くと言っていいほど無く、むしろ東側に対する西側のショーウインドーのような役割さえ持って明るく、繁栄しているような佇まいを示していた。それでも、ウイリヘルムカイザー二世教会は、ちょうど広島の原爆ドームのように折れた塔がそのまま残されており、またブランデンブルグ門近くの西ベルリン側にあった国会議事堂や、近くにあった日本大使館は、片付いてはいたが廃墟のままであった。また壁際の無人のビルには、無数の弾痕が見られ、市街戦の凄さを感じさせるものであった。
     外国人は東ベルリンに行けると言うので、休日に観光バスに乗って行ってみることにした。バスが検問所のチャ―リポイントに着くと、東ベルリンの女性の警官がバスに乗り込み、にこりとせず一人一人パスポートの写真と見比べられ、また、西ドイツの10マルクを、東ドイツの10マルクと換えさせられ全額使い切るか、のこったら検問所に差し出すように言われた。(実勢価値は、1対2位の差があるといわれていた。)また、バスの底を、鏡を低い台車に載せたもので点検していた。嫌がらせとも思われるような厳重なチェックの後、バスは漸く東ベルリンへ入り、いわゆる決まりきった観光コース、たとえば有名なペルガモン博物館などを見学して帰ってきた。それでも入ることが出来るだけ良く、ドイツ人、まして西ベルリンのドイツ人は、決して入ることが出来ないとの事であった。
     また、地下鉄(U-Bahn)は西ベルリンの運営であり、一部に残っていた市街電車(S-Bahn)は東ベルリンの運営であった。西ベルリンの人がよく利用する地下鉄は、東ベルリンの駅は閉鎖され通過し、市街電車には主として外国人労働者が利用していた。
     西ベルリンは、将に戦後の東西陣営の不信感、憎しみの象徴とも言える町であったとも言えると考えられる。
     このような憎しみの塊のようなベルリンの壁は、20世紀には決して崩壊する事は無いと言われていた。
     しかし、ソ連にゴルバチョフ大統領が就任し、東西にいわゆる雪解けムードが起こると、一気にそれが進行し、ベルリンの壁も1989年11月9日ついに開かれ、よく知られている壁の崩壊が起こった。不信感の塊のように見られていた東西ドイツは統合され、東側の多くの国が自由、民主主義を獲得して現在に至った経過はよく知られているとおりである。
     
     ナチスの作ったゲット―の壁、ユダヤ人収容場の壁、さらに東側陣営の作ったベルリンの壁のようなものは二度と作られないように世界の人が願っていたと思うが、いまガザ地区をベルリンの壁より高い壁が仕切っているのを見て、本当に残念に思っている。一日も早くこのような壁と同時に、人の心の壁が取り除かれ、世界に真の平和が訪れるのを戦争時代を過ごした者の一人として心から願っている。

    2 Comments »
    1. ベルリンの壁が崩壊する以前に、ベルリンへ行かれた体験を拝読し、当時の重い緊張感が伝わってきました。今となっては、大変貴重な経験になりましたね。日本は島国で海に囲まれており、これまで地続きの国境が無く、国境で起きる悲劇を経験していません。しかし、1945年8月15日の敗戦がもう少し遅れていたらと思うとゾッとします。
      1970年頃、私もジュネーブのCCITT(国際電信電話諮問委員会)に出席していた時、夕食時に東ドイツから西ドイツへ射撃を受けながら
      無事逃げ延びた人達がいるという話を聞きました。思わず「大いなる幻影」みたいですねと言うと、NTTの所長さんが「そんな古い映画を観ていたのか」と言われました。このフランス映画では、第一次大戦で独軍の捕虜となった仏軍のパイロットが捕虜収容所から脱走して、撃たれながら無事国境を越えると、追跡部隊が射撃を止めるシーンが印象的でした。しかし実戦ではこの様に、国際ルールが遵守されるとは思えません。人間の業の深さは計り知れないものがあり、人類は一方で進化し一方で堕落して歴史は繰り返されていると思います。

      コメント by 大橋康隆 — 2010年1月17日 @ 17:36

    2. とても貴重な体験談を有難うございます。生々しい当時の状況が伝わってきて、大変参考になりました。
       僕は、冷戦時代のベルリンは知らないのですが、ベルリンの壁崩壊後の1995年の12月中旬に、ベルルンにちょっと立ち寄った経験があります。
       そのときは、初めて、リトアニアの原子力支援のために、9月から3ヶ月余り、家内と一緒にリトアニアに滞在し、その任務を終えて帰国するときでした。
       当時のリトアニアは、ソ連から分離独立したために、経済が崩壊して、ひどい状況でしたから、そこでの3ヶ月余の生活は本当にきびしいものでした。そのせいで、リトアニアから空路ベルリンに着いたときは、正直言って、やっと地獄から脱出できたかという気分で、家内と顔を見合わせて、ホットしたのを憶えています。そのくらい当時のリトアニアはひどかったのです。
       それで、すっかり気分をよくして、さっそく、旧西ベルリン地区のホテルから、観光バスの乗って、旧東ベルリン地区を廻ったのですが、驚いたことに、至る所、建設用クレーンが立ち並び、まるで、街全体が、一つの広大なプラント建設現場のような状況だったことです。
       林立するクレーンと、建てかけのビル、コンクリートと鉄筋の散乱する街路など、まるで工事現場の中を観光バスが通り抜けていると言った有様でした。
       凄い勢いで、街の建設が進んでいることは実感できたのですが、少々常軌を逸していると思ったのも事実です。
       

      コメント by 武田充司 — 2010年1月17日 @ 22:44

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