大西利夫君の思い出/大橋康隆@クラス1955
記>級会消息 (2009年度, class1955, 消息)
電気科の2年間、下宿で共に暮らした大西利夫君が6月7日に逝去された。
1号館(建築)前で
大西君(右)と |
駒場時代、理科一類では、実験だけは各組共通で、4人が1グループであった。10組でフランス語を修得していた大西君と、2組でドイツ語を修得していた私とは、実験で同一グループであった。二人とも電気科に進学したので、安田講堂にあった下宿の案内係りの紹介で、郁文館中学に近いお宅の2階に下宿することになった。近くに夏目漱石の家があった。
下宿生活では、気配りの行きわたる大西君が常に兄貴分であった。彼はフランス文学や映画に造詣が深く、私は大いに啓蒙された。大西君が使ったフランス語のテキストを借りて、私も辞書を引きながらモーパッサンの短編を読めるようになった。当時、海外から戦前、戦中、戦後のすばらしい映画が多く輸入されていた。大西君と共に、土曜日の夕方には、法学部25番教室で映画研究会が主催する2本立ての名画を鑑賞した。日曜日には、エビス本庄で3本立てを見たり、新宿では日活名画座を中心に、ヒカリ座、オデオン座、地球座に足を運んだことを思い出す。エビス本庄では6本立ての日があり、朝10時から夜10時までコッペパンをかじりながら最後まで鑑賞した。その結果、外国の歴史、社会生活、人生観を学び、更に大西君の感想を聞く度に、洞察力の深さに感嘆したものだ。
大西君は、日本の伝統文化にも詳しく、上野の寄席鈴本演芸場にも連れて行ってくれた。大西君の文才は、東大工学部のT友会の雑誌「T友」復刊第二号(昭和28年11月28日発行)に掲載された、創作「青常」(平安朝時代の物語、ペンネーム:大西禮璽、64~77頁)を読むと理解できる。 | ||
T友表紙
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青常P64
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囲碁の腕前は、下宿時代は実力伯仲で、銭湯から帰ると1局打っていた。当時電気科で囲碁が強かった池澤英夫君も、放課後に我々の下宿に来て対局し、二人に大勝した。いい気持ちで帰る際、階段を踏み外して夜遅く大音響を立て、下宿のおじいさんに「泥棒!」と叫ばれたこともあった。
残念なことに、大西君は就職試験時に療養が必要とされ、昭和32年に卒業した。大西君は小野田セメントに入社して、大分に赴任してから隣室の先輩に鍛えられ、囲碁は長足の進歩を遂げた。1961年に私が米国留学した時、隣の寮に碁の好きな米国人学生がいて、実力は私と同程度であった。彼は日本の囲碁雑誌を購読していたが、その雑誌をめくって見て驚いた。懸賞募集で大西君が受賞していたのである。彼は私と同宿していたと言うと、その学生が念のため便りを出すよう促した。大西君から「三日会わずば剋目して相まみゆべし」という言葉を忘れたかという返信があり、彼の受賞が証明された。
1979年1月に私はブラジルに出張した。当時、大西君はサンパウロ勤務中であったので、お宅を訪問した。二人のお嬢さんにお土産を持参したが、私の予想以上に成長されており、相変わらず気配りの足りないところを露呈した。(写真右:大西夫妻と(サンパウロにて)) |
定年後、大西君の提案で、4人のグループで新宿の碁会所「喜楽」に集まり、時々囲碁を楽しむことになった。一人は大分で大西君を鍛えた先輩、もう一人は、大西君と高校からの友人である。彼は大学院に進学して、我々の部屋に下宿した。私の手合いは大西君に4目、先輩に3目置いて、友人とは互先であった。囲碁終了後は、懇親会で昔話を楽しみ、至福の時を過ごした。
その昔話の中で、大西君がセメント産業の用語を5ヶ国語(英、仏、独、西、日)の辞書に編纂したことを知った。彼の語学の才能に改めて強く感銘を受けた。 その後、順次体調不良になり、何時からか立ち消えになってしまい残念至極である。 (写真左:辞書表紙)(写真右:辞書内容) |
私の文化的素養を大いに高めてくれた大西君に感謝し、心からご冥福をお祈りします。
2009年11月1日 記>級会消息