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  • 長岡京市の歴史/西道夫@クラス1955

    前回のブログでは、この町にあった勝竜寺城について、私の想像をテーマに紹介した。今回はこの町自体の歴史を紹介する。

    日本の政治の中心-都-が奈良(平城京)から京都(平安京)に移る間の僅かの期間、長岡京が都であった。このことは恐らく皆が知っている。しかしどのような都だったのか、何故短期間の都だったか、我々の在学期間中、詳しくは教わっていない。この理由は長岡京がそれまでは幻の都だったのだ。文献ではこの都は存在しているのだが、都があったと言う証拠が全く無かった。発掘調査で実在が証明されたのは昭和29年で、発掘を始めたのが中山修一氏である。先日は勝竜寺城公園の次に中山修一記念館に寄って説明を受けた後、サントリービール工場に行った。
    1.時期:桓武天皇時代の延暦3(784)年、都が奈良・平城京から長岡に移された。しかし、延暦13(794)年に京都・平安京に移った。長岡京は僅か10年の都であった。なお平安京での政治の仕組みはこの長岡京で作られた。
    長岡京a.jpg
    2.町の構造:長岡京の大きさは東西約4,3km、南北約5,3kmで、平城京や平安京とほぼ同じ規模である。町全体は碁盤目状に区画されていた(写真)。
    そして中央北部が長岡宮であった。短期間の都であったため、主な建物は平安京に移され、長岡京は元の田畑へと姿を変えた。
    3.短期間であった原因:都が出来て8年後の延暦11(792)年に大洪水があり、これが桓武天皇の弟である早良親王(さわらしんのう)の死によるたたりとされ、都は京都に移された。
    早良親王は都づくりの長官・藤原種継(たねつぐ)の暗殺に関与した罪で捕らわれ、今も長岡京にある乙訓寺(おとくにでら)に幽閉された。無実を主張する親王はハンガーストライキを行ない、結局、淡路島への島流しの途中で死亡した。
    4.長岡京の発掘:長岡京は文献には記載があったが、現実に都があったかどうかは不明で、「幻の都」と言われていた。昭和29(1954)年、周辺地域の教員であった中山修一氏が文献等の調査結果などをもとに初めて発掘調査を行った。その後、大極殿(だいごくでん)・内裏(だいり)など次々と発掘調査を行い、碁盤目状に区画された都であることが判明した。調査は平成16年まで行われ、「幻の都」でなく、「実在の都」として知られるようになった。
    5.中山修一記念館:同氏(1915~1997)は長岡京市文化財保護審議会長など多くの審議会委員を歴任し、また吉川英治文化賞、京都府文化賞特別功労賞など数多く受賞された。現在は同氏の生家の一部が記念館になっている。ここに長岡京の復元図、発掘の様子、同氏の年表、同氏の蔵書(4帖半ほどの部屋に書棚が並んでいる)などがあり、案内人が説明してくれる。出発時刻を伝えないと、いつ終わるか判らないほど、説明内容が豊富である。記念館はサントリービール工場の東約200mの所にある。
    6.付け足し--水の話:奈良・平城京の都市としての問題点の一つに水がある。周囲は山で、湧水は多いので、酒造会社が多数ある。問題は排水ルートが少ないことである。京都も湧水が充分あり、酒造会社も多い。排水も加茂川が南へ流れていて、問題ない。長岡京の西側は南北方向に山が続き、特に西方の「西山」からは良質の水が得られる。これがサントリービール工場でビール原料として使われている。排水も京都からの桂川があり、充分排水可能である。                                以上
                                                      2009年9月3日

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