• 最近の記事

  • Multi-Language

  • 長岡京市にある勝竜寺城公園を訪ねて/西道夫@クラス1955

    去る7月23日、長岡京市を歩き、サントリービール工場で工場見学とビール試飲を楽しんで来た。

    JR長岡京駅の南方約2kmにビール工場があり、普通なら駅から送迎バスを利用するが、これではハイキングにならないので、同社のホームページに紹介されていたルート、即ち勝竜寺城公園(お城がここにあった)と中山修一記念館に寄ってから、ビール工場に行った。
    今回のリポートは、本能寺の変にこの勝竜寺城が関係しているのではないかという私の類推を紹介するものである。

    1.本能寺の変:NHKの大河ドラマには本能寺の変が何回か出てきた。
    いずれも明智光秀は信長の命令を受けて、毛利勢を攻めるべく、西へ向かっていたが、信長が京都の本能寺で僅かの家臣と逗留しているのを知り、急遽、本能寺へ向かい、信長を討った(自害させた)。時は天正10年(1582年)6月2日であった。これを知った秀吉は急遽京都に戻った。光秀は山崎で秀吉軍と戦ったが、破れ、勝竜寺城に入った。ここも秀吉軍に攻められ、城は落城、坂本城に落ち延びる途中で落命した。
    2.位置:JR長岡京駅は京都の西南にあり、京都駅からの距離は10,1kmである。当時の主道路である西国街道(京都から九州へ至る)は長岡京では南北方向に通り、勝竜寺城はこの街道の東側に面している。

    3.勝竜寺城の歴史:南北朝時代の1339年、北朝(足利尊氏)方の前線基地として、細川頼春(よりはる)が築いた(但しこれは伝説、との説もある)と言われ、京都盆地の南西部を防衛する要所であった。
    戦国時代の永禄11年(1568年)に織田信長が上洛し、この一帯を攻略して細川藤孝(ふじたか)にこの城を与えた。その後の天正9年(1581年)、藤孝は丹後の宮津城に移り、城主は村井貞勝の家臣、矢部善七郎、矢部猪子兵助の両名となった。

    4.勝竜寺城と光秀:天正6年(1578年)8月、光秀の3女「玉(たま)」が16歳で細川藤孝の長男忠興(ただおき)に嫁いだ。玉はここで3年過ごした。
    天正9年(1581年)、藤孝、忠興と共に丹後の宮津城に移った。そして本能寺の変以後に、この勝竜寺城は光秀の居城となった(なお別の資料では、本能寺の変の後、光秀は勝竜寺城に本陣を構えた、となっている)。

    5.不明点:(私の類推も含めて)
    5-1.本能寺での信長に関する状況把握の方法:無線機や携帯電話の無い時代に、遠征中の光秀は如何にして信長の動静を把握したのか。もし勝竜寺城を情報の拠点にすれば、毎日でも伝令をこの拠点に送ればよい。
    5-2.戦いの基地:遠征中では、戦いのための武器、武具、食料、休憩場所が不十分であり、どこかに基地が欲しい。勝竜寺城を秘密裏に利用できれば、非常に有利である。山崎の合戦後に勝竜寺城に入ったが、事前に関係が無かったら、この城に入れないであろう。
    5-3.玉は何故細川忠興に嫁いだのか:当時の結婚は光秀程の地位の場合、いわゆる政略結婚であることが多い。光秀は勝竜寺城の利用価値を考えて、この結婚を計画したのではないか、とも考えられる。勝龍寺(2).jpg
    5-4.細川藤孝は何故宮津城に移ったか:歌人としても名高く、当代第一の歌人と言われていた。にも関わらず、何故宮津に移ったか、全く説明が無い。藤孝が光秀から謀反への協力を求められたが、それに従いたくないため、移ったのか、それとも光秀が娘の玉を本能寺の変と無関係であることを示すために、移らせたのか、判らない。
    いずれにしても、記録が無いため、真実は判らない。

    6.現在の勝竜寺城公園:勝竜寺城は結局1649年に廃城となった。当時の主郭部分の大きさは東西120m、南北80mであったが、この東西方向を少し小さくした部分が城跡公園となり、ここに城の形をした記念資料館(写真)が建てられている。

    7.その他:この春に探訪した信長の安土城の件、8/18付け日経新聞関西版によれば、9/12公開される映画「火天の城」はこの巨城造りを命じられた宮大工一門の苦闘を描いたものの由。興味ある方は見て下さい。      以上
         2009.8.23

    コメントはまだありません »
    Leave a comment

    コメント投稿後は、管理者の承認まで少しお待ち下さい。また、コメント内容によっては掲載を行わない場合もあります。