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  • 卒論の頃/大曲恒雄@クラス1955

     卒論は元岡研、場所は総合試験所で、当時揺籃期にあったコンピューター用主記憶装置の一種「フェライト磁心記憶装置」の基礎研究をした。

     なお、同じ研究室で太田(堯)君が別方式の主記憶装置の研究をしていた。
     強磁性体のヒステリシス特性を利用した記憶装置で、外径5mmほどのドーナッツ状のフェライトコアにXY両軸1本ずつの銅線を通して4×4のマトリックス状に組み、更に共通の読み出し線を全コア直列に通す。書き込みは、飽和磁束密度の半分程度を生じるパルス電流をX軸Y軸同時に流せばその交点にあるコアだけが(これを仮に+方向とする)磁化され、その状態は電流が消えた後も保持される。読み出しの際は逆方向の電流を同じように流す。もし、そのコアが+方向に磁化されていれば反転して読み出し線にパルスが検出される。磁化されていないコアは何も反応しない。このようにしてフェライトコアに二進数の1と0を記憶させることができる。ただし、コアから読み出すと記憶内容が消えてしまうので再書き込みという処理が必要となる。 
     
     X軸、Y軸に大きなパルス電流を流すためにアンプ最終段に電力増幅管の807を使った。当時はまだ半導体以前の時代であり、大電流を得るために電力増幅管としてポピュラーだった807を使うのがフェライトコア.jpg一番簡単だったのである。その時の実験装置を右写真に示す。所狭しと大きなシャーシが並んでいて肝心のフェライトコア記憶装置がどこにあるのか分かりづらいが、奥のスライダックの左側、真空管の左隣に鎮座している。なかなか思うようにコアが反転してくれなかったり、反転しても十分な信号が得られなかったり、苦労したことは確かだが細かいことは殆ど覚えていない。
     この方式による主記憶装置は間もなく実用化され、1960年代初めには広く使われるようになった。
    その後、1970年代初めに半導体メモリーに置き換わるまでの約10年間、“主記憶装置の主役”として活躍した。
     インターネットを検索した所、最盛期のコアメモリーの写真を含む紹介記事が目に付いたので紹介しておく。これはHITAC-10Ⅱの紹介の一部で、11×8.5cmの基板上に外径0.3mmのコアが73,728個配置・接続され、4Kword×18bitの主記憶装置を構成していたとのこと。
      http://www.st.rim.or.jp/~nkomatsu/premicro/coremem.html

     研究室の直ぐ近くの部屋に開発中のTAC(Tokyo Automatic Computer)が設置されていたので覗きに行ったことがある。部屋いっぱいにラックが立ち並び、部屋に入った途端むっと来る熱気が凄かったことを覚えている。また、毎日真空管が10本くらい切れるという話を聞いたような記憶もある。
     WikipediaによるとTACは東大と東芝が共同開発したコンピューターで東芝がハードウェア、東大がソフトウェアを担当。1954年末に東芝による試作機が東大に納入されたが調整が難航し、完成を見ることなく1956年に東芝は撤退した。主な難航要因はウィリアムス管を使った記憶装置が不安定だったこと、他。その後、東大は日立の協力も得て1959年に完成し、1962年まで運用された。主な構成要素は真空管7,000本、ダイオード3,000個などで動作周波数330kHz、主記憶装置はウィリアムス管、容量512word(1wordは35bit)。

     コンピューターの歴史を調べてみると、戦後しばらくはアメリカとイギリスが先陣争いをしているようである。
    (1) 1946年(アメリカ/陸軍弾道研究所):最初の実用的な汎用コンピューターと言われるENIAC完成。真空管18,000本、主記憶装置無し、パッチパネルでプログラムを変更する方式
    (2) 1949年(イギリス/マンチェスタ大):マンチェスタ・マークⅠ完成、主記憶装置はウィリアムス管、初めて17行のプログラムが書き込まれた
    (3) 1949年(イギリス/ケンブリッジ大):最初のプログラム内蔵式(フォン・ノイマン型)コンピューターEDSAC完成
    (4) 1951年(アメリカ/レミントンランド社):最初の商用プログラム内蔵式コンピューターUNIVACを統計局に納入、主記憶装置は水銀遅延線
    (5) 1952年(アメリカ/陸軍弾道研究所):プログラム内蔵式の本格的な実用機としては最初のEDVAC完成、主記憶装置は水銀遅延線
    (6) 1953年(アメリカ/MIT):初めて主記憶装置に磁気コア記憶装置を採用

     我々の卒論時代はまだ戦争の傷跡が完全に癒えてない時代であるが、同時に間もなく始まる高度成長時代へとモードが切り替わる直前の時代でもある。“先進国”から新しい情報がどんどん流れ込んできて、第一線の研究者にとっては目の回るような忙しさだったに違いない。その時に新進気鋭の元岡助教授直々のご指導を得て最先端分野研究の一端サッカーティーム.jpgに触れる機会を得られたこと、またそれが次世代の主役となる主記憶装置であったことは大変幸せな体験だったと思っている。
     
     所で、卒論やコンピューターとは直接関係ないが、実験装置の写真の貼ってあった卒業記念アルバムの前のページに「電気工学科サッカーチーム」とタイトルを付けた2枚組の写真を発見したので披露する。下の写真には“応援団”も一緒に写っている。撮影時期は不明だが、1993年の秋ではないかと推定している。

    1件のコメント »
    1. 大曲編集長が元岡研で卒論研究をされたことを初めて知りました。学生時代に、誰がどこの研究室で、何を卒論研究されたのか全く記憶がありません。それにしても「フェライト磁心記憶装置」の研究とは、先見の明があったと思います。その後、日本が辿った苦難の歴史を横目で眺めていました。コンピューターが如何に大変なものであるのかを実感したのは、NECから日本高速通信(合併を2度して現在はKDDI)に移り、料金コンピューターを導入した時でした。
      また真空管のコンピュータを初めて眺めたのは、ハーバード大学に留学した時でした。当時、米国人学生は電卓を持っていましたが、私は所持していなかったので、寮の裏にあるコンピューター・センターにある電卓を使って宿題をこなしました。ある日同じ寮の学生が、センターの壁を指差し、よく見ろと言いました。そこには白い矢印があり、算盤がぶら下っていました。近くに古い真空管のコンピューターがあり、緊急時にはこれを使えというジョークであった。如何に真空管がよく壊れるか、私には直ちに理解できた。
      真空管の807も懐かしいが、フェライトも色々な思い出がある。NECで最初アナログ通信の設計をしていた頃は、濾波器(フィルター)が重要部品でお世話になった。更に、雑音や漏話を防止するため阻止線輪が導入され、我々の残業や徹夜は大幅に改善された。
      私は、サッカーチームには入ってないが、応援団には入っている。理工系の5大学の野球試合では、南雲君がサード、小生はショートで三遊間を守ったのを覚えている。

      コメント by 大橋康隆 — 2009年9月3日 @ 19:10

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