もう一つの開港物語/小林凱@クラス1955
記>級会消息 (2009年度, class1955, 消息)
今年は横浜開港150周年で様々な記念行事が行われている。この開港経緯に就いては先月大曲兄が紹介されているが、これを読みながらふと神戸開港はどうであったかと思った。
私は横浜に住む前は神戸に居たので双方の町に愛着があり、偶々先月神戸に行く機会に市役所に立ち寄り資料や史跡に就いて教えて頂いた。
神戸も戦前から栄えた貿易港なので開港も似た頃かと思って居たが、実は横浜に遅れること9年の明治元年1月である。その2月前に徳川慶喜が大政奉還し日本の社会が大きく変わる騒然とした中で行われた。
その始まりは1857年、米国総領事ハリスが幕府に関西にも開港場増加を要求した事による。幕府が困ったのは京都に近い所から尊王攘夷に火を点ける事への危惧で、逃げ回ったが大阪の開市と堺の開港を約束させられた。
この話はすぐ堺が日本の聖地大和に近いとの異論が出て、このトラブルを嫌った幕府は兵庫を代案としてハリスも同意した。こうなると他の欧州諸国も一斉に迫って1858年の安政五カ国条約の締結となった。
堺の本音は異人との接触を避けたかったのかも知れないが、結局そうした運動をしなかった神戸がその後の歴史で大きく変ることになる。
ところがこの直後の横浜開港後の様子は、日本は商売の足元を見られて外国商館が儲けを独り占めする有様で、幕府はとてもこの儘で兵庫開港は出来ないと判断し、急遽使節団を欧州に派遣し開港を5年延す事に成功した。
しかしこの頃から世情は騒然として幕府の力も衰え、朝廷の政治への発言も増してきた。時の孝明天皇は攘夷論者で、1863年春朝廷に参内した将軍家茂に対し攘夷令の発令を要請されている。ところがこの頃から外国艦隊が相次いで大坂湾に現れ幕府への面会を求め、とても此の儘で収まる様な状況では無くなっていた。
家茂は参内の後、軍艦奉行勝海舟の案内で大坂湾を視察して神戸に上陸したが、勝の計らいで地元の呉服雑貨商の網屋吉兵衛を引見し開港場について意見を聞いた。吉兵衛は永年の調査の結果からこの神戸が港に最適の地であると進言して居る。またこのとき勝の提案で此処に海軍操練所を設置し海軍士官の養成に当る事も決まり、吉兵衛が開いた船舶修理工場に隣接して設けられる事になった。
この間1866年に孝明天皇が亡くなられ明治天皇に代わる頃、家茂も長州征伐の途中21歳でこの世を去り徳川慶喜が将軍となる。この辺りから神戸開港は再び時の政治問題の中で動き出す。
倒幕の動きで騒然とする中、慶応3年(1867)3月に慶喜は開港勅許を朝廷に求めたが薩長の反対もあり中々下りない。そこで慶喜は諸外国との約束を守る為に是非と京都に居続けの様に粘って、遂に5月勅書を入手し12月7日を開港予定と各国公使に通知した。
この短期間での開港を危ぶむ向きも多かったが、準備は幕府の兵庫奉行・柴田剛中が担当した。彼は以前に欧州に出張した経験を持ち、外人との交渉や横浜での開港後の問題を見ていたので、その対策に努力し外国商館の特典を押さえる事に可也り成功している。問題は当時の幕府には開港場を準備する資金が無く、開港後の権益を担保に関西の豪商達を口説いて商社を作らせ出資させた。その後幕府は無くなり出資者は大損を被るが、出資者の名前になお後日に残る者が多いのは関西の商人達もしっかりしていた事だと思われる。
この後間も無く10月に慶喜は大政奉還し、続く鳥羽伏見の戦いにも敗れて幕府の体制は崩壊した。しかしその間にも開港準備は続けられ、予定の慶応3年12月7日(1868年1月1日)に神戸は開港した。当時の新政府は未だ体制が無く、準備を継続していた幕府の兵庫奉行田中剛中が開港宣言書を各国公使に手交した。当日神戸沖には12隻の英国艦隊と6隻の米国艦隊が整列し礼砲を放って祝賀したと記録されている。また兵庫の人たちも多くがこの開港を期待していた。
開港直後の神戸は未整地も多く外人の不平も多かったが、数年の内に整備されると急速に発展する。かって平清盛が福原遷都で大輪田の泊を修築してからの繁栄が後年衰退したのち放棄され、関西の海運は大坂湾の東部に移っていたのが返って来る様な思いで見る人も居た様だ。
神戸開港は時期が幕末の激動期なのでそれに絡む話も多彩だが、また皆さんがご存知の話も多い。その中で開港前夜の神戸に実に魅力的な人物が居た。将軍家茂に神戸港を推奨した地元商人の網屋吉兵衛である。その人生はロマンに満ちて私には開港歴史より面白い位であるが、それは又別の機会と致したい。
(参考資料)神戸港千五百年(海文堂出版)
2009年6月8日 記>級会消息