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  • 「発想の違い」(英語の話)/西道夫@クラス1955

    寺山君の英語苦労話に刺激されて、私からは、古い寄稿文を紹介。


    (一寸説明)
    去る3月9日付けブログに寺山君が英語で苦労した話を掲載されたので、私も経験談のような話を紹介する。以下の文は27年前の1982年(昭和57年)10月26日付の太平洋工業所有権協会日本部会発行の広報誌に私が寄稿したものである。大分古い話で恐縮だが、何かの参考になれば、と思う次第。紛らわしいが私は1967~70までNYに駐在、また、森岡昇君も同時期に駐在。私共家族が住んでいた場所はマンハッタン中心より列車で北に40分弱の町で、アパートの前は町立の中学校、右隣は小学校であった。
    (以下が寄稿文)
    今から丁度15年前、筆者は米国に駐在する機会を得、約3年間滞在した。米国人を相手にして、最初の内最もとまどったことは、言葉ではなく、物の考え方というか、発想の違いであった。何がそのような違いを生ぜしめるか?
    それは米国のビジネス社会ではなく、子供の頃からの教育環境ではないかと思う。ここに彼等の教育環境の一端を紹介するので御判断頂きたい。
    1.個人の尊重とは
    戦後、民主主義について我々は教えられた。自由と責任、権利と義務は理解できたが、個人の尊重と言うことにについては理解できていなかったように思う。
    ある時、小学2年の娘の教室へ筆者は一人で行き、授業を参観させてもらった。終了後、記念に写真を撮らせて欲しいと申し出たところ、先生は快諾され、前の方に生徒を集めた。その時に先生が叫んだ言葉はCome here each of youであった。
    日本では民主主義が導入されて30年以上経た現在でも、恐らく「みんなここにおいで」と言うであろう。
    2.平等、機会均等と差別
    娘の通っていた町立の小学校では、数学など学力に大きな差が現われる学科の場合、1クラス(約25人)を上中下の3グループに分け、一人の先生がそれぞれのグループに対して異なる内容を教える。従って学校全体の平均的学力レベルが低い学校に通っても、或いはレベルの高い学校に通っても、そのレベルに関係なく、個々の生徒はその学力に応じた授業を受けられるのである。また、学年末に所定の水準に達することができず、進級することが好ましくないと判断された生徒(この様なケースは少ないが)は留年して再度勉強する機会が与えられる。落第させられるという感覚はない。
    日本では学力別に分けて授業するとか、留年させることは差別と判断されるためか、一般には行なわれていない。それが生徒を平等に扱う、いわゆる民主主義である、と考えられているのであろうか。
    3.大局的な見方
    社会科の授業として、米国では小学校低学年でまず宇宙を教わり、それに続いて銀河系、太陽系、惑星、その一つである地球、というように最初に全体のことを習う。高学年になるに従って身近なものを深く、詳しく勉強する。日本では低学年でまず身近なもの、即ち自分の町を勉強し、高学年になるに従って、世界のことを習う。
    日本人は全体を把握することをせずに身近なこと、枝葉末節ばかり考えるとか、大局的な見方がが下手だ、とか言われるが、原因はその辺にあるのではなかろうか。
    4.自分のことは自分で責任を
    同じく住んでいた町の公立高校の話。生徒は自分の取得したい学科を自分で選択する。ここまでは日本も同じである。異なるのは先生も選択できる点である。従って先生が悪い、などという不平不満は言いにくい。
    一方、先生の側にして見ると、教え方の下手な先生の所には生徒が集まらない。教えるべき生徒が居ないということは、その先生に仕事がないことであって、先生は学校を退職しなければならない。従って先生は文字通り一所懸命教え方を勉強する。
    また、勉強を怠慢し、成績が所定のレベルに達しなかった生徒は6月の卒業時に卒業証書は貰えない。このような生徒が2~3割もいる。学校側は夏休みの1~2ヶ月間補修授業をして再試験し、結局半数位は卒業するが、残りは留年か、或いは学校を去ることとなる。
    この年頃からこのような境遇に置くのは可哀そうだ、という感じもするが、世の中のきびしさを教えるのも学校の役目の一つであるとも言えよう。
                以上
                                      平成21年3月25日

    1件のコメント »
    1. 先週は2年半ぶりにゴルフをしたので、帰宅後ブログを読む前にぐっすり眠り、そのまま一週間怠けてコメントが遅れてしまいました。西さんがNY駐在中一度訪問した記憶があったので、歯抜けだらけの古い手帳を調べていたら、1970年3月8日の日曜日にANAPOLISに連れて行って頂いた記録を発見しました。当時2週間程ワシントンに出張して衛星関係の仕事をしていましたが、週末に訪れて大変お世話になりました。
      寄稿文の内容は、私が日頃感じていたことをばっちり纏めてあり、溜飲が下がる思いです。特に「平等、機会均等と差別」については同感です。私は子供がいませんが、親戚や友人の孫世代の話はよく聞いているので、教育ジジの仲間入りをしています。小学校で母親が宿題を出して欲しいと先生に頼んだら、とんでもないと断られた。塾に通っている子供の親が、塾の宿題で忙しいので、宿題を出すと困ると反対するそうです。塾に行けない子供のことは考えてくれないそうです。子供は親を選ぶことは出来ません。これは厳然たる事実です。せめて義務教育の間は子供達に機会均等を与えるべきです。現在の日本の最重点課題は教育であると思います。
      「大局的な見方」は囲碁の好きな私には切実で必須であります。伝統的な囲碁は大局観を養うのに最適であり、コンピューターが最も苦手とするゲームであります。局所的な「詰碁」「よせ」「定石」等には強力ですが、総合力では人間には及びません。最近、駒場で石倉九段が客員教授になられましたが、囲碁の教え方について大いに期待しています。極端ですが、私は小学生の科目に入れても良いと思っています。現在の日本人は大局観に著しく弱いと思います。

      コメント by 大橋康隆 — 2009年4月22日 @ 23:58

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