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  • 150年前のこと/大曲恒雄@クラス1955

    今年の6月2日は横浜開港150周年記念日である。


    その関連行事の一つとして4月28日から横浜開国・開港記念博が開催される(横浜開国・開港記念博のホームページは http://event.yokohama150.org/  )。
    150年前(1859年、安政6年)の頃に一体何が起こっていたのか興味があったので調べてみることにした。と言っても博物館や図書館に行って本格的に調べるほどのファイトは無いので、本棚の隅に鎮座していた「日本全史」(資料)で主な出来事を追ってみた。

    前置き
    (資料)には「外圧」と題する特別記事があるのでイントロとして一部を紹介する。 『18世紀末から19世紀にかけて、ロシア、イギリス、アメリカなどのいわゆる異国船が相次いで日本沿岸に押し寄せた。通商、薪水の供与を求めての行動であった。しかし幕府は1825年(文政8年)2月諸大名に異国船の打ち払いを命じる。幕府にとって異国船は「外患に他ならなかった」と言えよう。』

    話は開港の14年前、1845年(弘化2年)から始まる。12代将軍家慶の時代であるが、1853年(嘉永6年)に13代将軍家定(篤姫のダンナ)に代わり、彼が1858年(安政5年)に死去すると一騒動あった挙げ句13才の新将軍家茂が誕生する。同じ年に彦根藩主井伊直弼が大老に就任している。
    1845/7(開港の14年前、弘化2年) オランダ軍艦パレンバン号が国王の開国を促す親書を携えて長崎に入港したが幕府は無視した。
    1847/5(開港の12年前、弘化4年) アメリカの東インド艦隊(戦艦コロンバス他)が浦賀に来港、日本の開国意志を確かめる目的だったが幕府は拒否した。
    1849/4(開港の10年前、嘉永2年) イギリス軍艦マリナー号が浦賀沖に入り江戸湾の測量を開始、10日間くらいかけて浦賀・下田両港の測量をしてから立ち去った。
    1853/6(開港の6年前、嘉永6年) ペリー艦隊(2隻)、いわゆる「黒船」浦賀に来航。幕府は威嚇されて渋々大統領の国書を受け取る。ペリーは来春更に多くの軍艦を率いて返書を受け取りに来ると宣言した後、江戸湾内を示威行動してから引き揚げた。
    1854/1(開港の5年前、嘉永7年/安政1年) ペリー艦隊が条約締結のため7隻で江戸湾に来航。幕府は応接地として鎌倉や浦賀を提案したがペリーが江戸市中を遠望できる羽田沖に全艦隊を乗り入れデモンストレーションを行うと慌てて神奈川(*)を応接地とした。結局ペリーの軍事的威圧に屈した形で日米和親条約が締結された。
     (*)東海道五十三次の宿場の一つで現在の横浜市神奈川区本町付近、近くに神奈川湊があった
    1855/12(開港の4年前、安政2年) 懸案の日蘭和親条約が締結された。オランダはアメリカのように軍事的威圧をせず友好的に幕府の軍艦・鉄砲・兵書の購入や近代的海軍伝習の依頼を受け入れるなど条約締結への努力を続けていた。幕府は米・英・露の順で和親条約を結び、主な欧米列強との間で正式に国交が樹立された。アメリカが最初で、オランダが後回しになったのは相手が強く出れば萎縮、下手に出ればつけあがる幕府外交の卑屈さのため。 
    1857/5(開港の2年前、安政4年) 日米和親条約の修補条約として日米条約(下田条約)が締結された。駐日アメリカ総領事ハリスの執念が実ったもので、この条約には後の日米修好通商条約の不平等条項が既に盛り込まれていた。
    1858/6(開港の1年前、安政5年)  日米修好通商条約が締結された。これもアメリカの威圧によるもの。
    1858/7 オランダ、ロシア及びイギリスとの間に、また9月にはフランスとの間に修好通商条約締結。
    この安政5カ国条約は公使の江戸駐在、神奈川・長崎・兵庫・新潟・函館の開港、江戸・大坂の開市、自由貿易を規定、更に領事裁判権・協定関税率制度・片務的最恵国待遇供与が成文化された不平等条約である。これによって日本は世界の資本主義の荒波に投げ出されることとなった。
    1859/5/28(開港の年、安政6年) 幕府は6月以降、神奈川・長崎・函館の3港でロシア・フランス・イギリス・オランダ・アメリカの5カ国との自由貿易を許可。
    既に幕府は貿易開始の6月2日に向け、開港場や居留地の設営・整備を進めていた。しかし神奈川は東海道の宿場で往来が激しく、外国人とのトラブルが予想されるなどの理由で対岸の横浜に設営を急いだ。外国側は条約違反と抗議したが幕府はこれを無視、波止場近くに運上所(税関)を建てその東側を外国人居留地、西側を日本人街と指定した。
    1859/6開港後、イギリスやアメリカの近代的貿易商の持ち船が来港し、次々と横浜に商館を建設する。一方、幕府は御用商人三井家に日本側貿易商の元締めとして強制的に支店を開かせる。神奈川・下田などの商人たちも店を出し、日本を世界市場に編入する「自由貿易」が開始されることとなった。

    付け足し 開港の後起こったこと
    1860/1(安政7年/万延1年) 咸臨丸太平洋横断へ出帆
    1860/3 桜田門外の変 大老井伊直弼暗殺される 
    1862/8(文久2年) 生麦事件 薩摩藩島津久光一行が馬に乗った4人のイギリス人と鉢合わせ、イギリス人1人死亡、2人負傷。これが翌年の薩英戦争につながった。
    1864/6(文久4年/元治1年) 新撰組池田屋を襲撃 
    1867/10(慶応3年) 15代将軍慶喜 大政奉還

    コメント
    150年前の記録を整理して気がついたのだが、この時に日本はアメリカを始めとする連合国に事実上無条件降伏している(歴史は繰り返すというが、86年後、また同じ相手に無条件降伏することとなる)。
    特にアメリカはこの時まだ建国から100年も経っていない若い国で、いわばそんな若造とも言うべき国の率いる“西欧列強”諸国に翻弄され、屈辱的な不平等条約を結ばされたわけである。外圧に迫られて開国・開港した結果が良い方向に向かい、近代国家への転換が早くなったことは確かだと思うが、だからと言って単純に結果良ければ全て良しと割り切り、開港150周年を素直に祝う気持ちになれないのはちょっと残念である。

    (資料)「日本全史 Japan Chronik」講談社 1991/3/15 発行

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