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  • クラス1953新(昭28新)

    【神話の国出雲の旅(3)/錦織 孜】

    3.第3日目(足立美術館ー清水寺ー和鋼博物館ー荒神谷・加茂岩倉史跡ー出雲空港)

    5月22日 曇
     
    朝の宍道湖風景

    NHKの連続朝ドラマ「だんだん」のおかげで広く知られるようになった宍道湖風景。テレビでは東から西を眺める夕暮れ風景であった。宿の窓からは北から南へ向かって見る風景で、旧制高校時代、電車から毎日眺めた風景である。南に中国山地が連なり、はるかに嫁が島が、手前の広い湖面にはたくさんのシジミ採り舟がゆっくりと動いている。晴れていれば、朝日に映える眺めであったかもしれない。

    朝食に宍道湖で採れたシジミのみそ汁がつくのは当然であるが、貝殻から身がつまんで食べれるのがありがたかった。関東では砂粒のような大きさしかなく身を食べるのが面倒である。子供のころはもっと大粒であったのに、最近は湖の環境変化でシジミの生育が悪くなり復活の研究が続けられているそうだ。

    足立美術館

    美術館創設者の足立全康氏は典型的な立身出世の人である。商才に長け、炭を荷車で運んだ時代からの逸話が残っている。

    横山大観の絵の収集とか庭園造りに必要な樹木や石などの選定は、すべて足を運んで自分の目で確かめていたとか。

    5万坪の庭園は、中国山地の山々を借景にした壮大ではあるが、日本的な優美な姿を見せている。連続6年、庭園日本一の栄冠に輝く風景である。

    それぞれの窓から眺める庭園景色は、窓一つ一つを額縁にした絵となり、見事な設計で感服するしかない。四季それぞれの趣があり、飽きることのない美を与えてくれる。私の第4回目の未だ褪せない印象である。大観、栖鳳、関雪、玉堂などなど・・・・日本画の巨匠たちの絵も素晴らしく毎回楽しましてくれる。北大路魯山人の特別展も面白いかったが、河合寛次郎の作品が全部仕舞いこまれていたっは残念だった。

    清水寺

    用明天皇二年(587年)に尊隆上人により開かれた天台宗のお寺である。根本堂は室町初期(1393年)に建立。尼子・毛利の戦火で根本堂以外は焼失。現在の建物は松平藩時代のものである。三重塔は安政6年(1859年)信者の手によって建立された。

    宝物館は公開期間ではなかったが濱崎君が予約してくれたおかげで、本尊はじめ国の重要文化財3点他を拝むことができた。

    十一面観世音観音菩薩立像、阿弥陀三尊坐像、阿弥陀如来座像など素晴らしいものであった。

    境内には3軒の旅館があり精進料理が食べられる。我々は紅葉館で右の写真(ネットより拝借)のように、大変手の込んだ料理をいただいた。上の三重の塔の写真は食事を取った部屋から写したものである。

    和鋼博物館

    玉鋼、たたら製鉄の勉強に安来市にある和鋼博物館を訪れる。古来、奥出雲では砂鉄から木炭を使って和鋼を生産していた。出雲国風土記にも書かれている。

    館内には、たたら製法のビデオが流れ、別に「たたら」の地下構造の断面を構築順に示した模型があったが、説明がついていない。新日鉄にていたN君も昔の製造法はわからないらしい。わいわい言いながら論議していたが、結局館内の説明員(学芸員だったようだ)から、きちんと説明してもらった。地下構造がしっかりしていないと炉の温度が保てないそうだ。

    炉に空気を送る鞴を踏む人を番子という。この作業は重労働なので時間交代で送風作業をした。これから「替わり番子」という言葉が生まれたそうだ。写真は天秤鞴を踏むY君である。

    日本刀の素材を確保するために補助金がでており、たたら製鉄が続けられているそうだ。

    たたら炉において地下に逃げる熱量は膨大なもので、このように地下に巨大で精緻な構造を作って炉の高温を保ていた。

    荒神谷・加茂岩倉史跡

    いよいよ旅行目的の最後のコースである。

    広域農道を作るために遺跡調査をした時、田んぼの畦道で一片の土器片が見つかった。古墳時代から奈良時代の須恵器と判明した。1984年発掘調査が行われたとき、この荒神谷で358本の銅剣が発見された。さらに翌年、7m離れたところから銅矛16本と銅鐸6個が発見された。近畿を中心に出土する銅鐸、北九州を中心に出土する銅矛、出雲地方特有の形式の銅剣が同じ場所に大量に出たことにより、学術的価値が高く、日本の古代歴史に新たな問題を投げかけた。銅鐸は日本最古の形式である。出土品は国宝、古代出雲歴史博物館で保管されている。

    加茂岩倉遺跡からは1996年に39個の銅鐸が出土した。同一場所では日本最多の数である。(国宝、古代出雲歴史博物館保管)
     時間が遅かったためになかには入れず遠くから見ただけ。
     入口の道路の真ん中に銅鐸が置かれていたのが印象的であった。

    別れ

    羽田行きの最終便まで時間があるので、最後の夕食を食べで別れることにした。

    出雲空港の近くにある、石見の国 江津の豪農の家を移築した鶴華、波積屋でそれぞれ好みのそばを食べた。残金清算も見越して注文。幹事と会計の優秀さが発揮され、ほとんど使い切ってこの旅は終了した。幹事・会計、そして細かく調査し、現地まで確認して計画された濱崎君に、また話題提供、その他のK君、T君に感謝申し上げます。 

    4.感想

    わが故郷とは言え、あまりよく知らなかった地理・歴史・政治の勉強をした。

    我が家が何百年も昔に古宍道湖畔にあったとか、なんで平田というのか。今、木綿街道や平田船の町おこしの地道な努力がされているが、その大切さを感ずるようになった。

    濱崎君の行きたい場所の説明書は、学術的にも価値あるものであった。おかげで古老の残したふるさと平田の物語などで新たに知ったものが多かった。

    「灯台下暗し」という言葉はウソではなさそうである。

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