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  • クラス1953新(昭28新)

    【神話の国出雲の旅(1)/錦織 孜】

    昨年の55年会が終わって幹事の一人工藤君から出雲旅行の提案があったようだ。出雲出身の濱崎君と私以外はほとんど誰も行ったことがない未知の国である。早速中西幹事から現在出雲に居を構える濱崎君に相談が行き、訪れたい場所と2泊3日程度の旅行案が提示された。

    八岐大蛇退治,国引き、国譲り、などの神話がたくさんある、出雲国風土記や記紀に叙述された地方の旅の提案には多くの級友の参加が望めそうであった。

    1.大変だった予約作業

    3月16日、濱崎君の上京を受けて新日鉄の代々木クラブに有志6名が集まった。彼の提案する2つの案(松江以西の史跡・名所コースと松江以東を含む玉鋼と美術館を加えたコース)のいずれにするかは出雲組に任すことになった。先ずは宿と飛行機を抑えるということで、中西幹事が旅行代理店に連絡したところ、2か月先であるにもかかわらず1社では希望人数分(9-10名)予約できず、2社のパック旅行に仮予約してやっと7名分確保できた。旅行日程の5月20日から22日は、日本の3大船神事祭の一つで、12年ごとに行われる松江のホーランエンヤ祭(5月16日から24日)の最中で遠来の観光客が多かったためかもしれない。

    後期高齢者である我々はいろいろ健康上の悩みが多い。絶対確実に参加と思われた9名中3名が本人または奥さんの体調のためキャンセルとなった。中西幹事はそのたびに前払い金処理、最終的には旅行代理店を一つに整理など、大変な苦労をされたようである。

    2.旅行第1日目(出雲空港ー出雲文化伝承館ー出雲大社ー古代出雲歴史博物館ー日御碕灯台ー平田ー玉造温泉)

    5月20日曇り。濱崎君と出雲空港で羽田から飛んでくる4名を待った。驚いたことに東海道を歩き続けていたK君がステッキ姿であらわれた。腰を痛めたとか。9人乗りのタクシーで6人ゆったりとした旅が始まる。案内は濱崎君がしてくれた。 

    出雲文化伝承館

    お昼は出雲地方の大地主であった江角家の母屋と長屋門を移築した出雲文化伝承館内にある献上そば羽根屋で3色割子そばをいただく。松江の7代藩主松平治郷(不昧公)は風流を愛した名君として名高いが、彼の愛した茶室「独楽庵」と思って入ったところが数寄屋作りの茶室松籟亭であったようだ。

    神在月(神無月)に八百万神が神議りを終わって出立される場所、斐伊川にかかる神立橋を渡って出雲大社に向かう。

    参道入り口の木製鳥居の前で全員の最初の記念撮影をする。本殿は遷宮のため工事中であの神々しい偉大な姿が拝めないのが残念である。16丈の高さであったと記録された本殿跡の3本の柱を束ねた大柱の跡で濱崎君からいろいろ話を伺った。主祭神は昔はスサノオノミコトであったが、今は大国主大神である。(17世紀寛文年間の遷宮のとき出雲国造が神仏分離、廃仏毀釈を唱えて、仏堂、仏塔の移築・撤去に併せて主祭神が大国主大神に改められた。Wikipedia出雲大社より)

    出雲の国造は千家と北島の二家ある。何れも天照大神の第2子の天穂日命の子孫で南北朝時代に分裂したが幕末まで出雲大社の祭祀を平等に分担してきた。(Wikipedia出雲国造より)

    このような話が二日目に行く松江の神魂(カモス)神社、熊野大社との関係に連なっていく。

    宝物館では遷宮ごとの神社の全貌を現した絵図があり、変遷の状況が把握できる。寛文の遷宮で三重の塔や鐘楼などの仏教系のものが一掃されている。

    参拝後、北島国造の家をちょっと覗いて古代出雲歴史博物館に向かった。

    古代出雲歴史博物館

    ホールには平成12年に境内で発見された杉の大木3本を1組に束ねた直径約3mの巨大な柱の一つが展示されている。鎌倉時代前期(1248年)に造営された本殿の棟を支える宇豆柱である可能性が高いとされている。「出雲大社と神々のまつり」室では平安時代の巨大神殿の1/10模型と5名の研究者のそれぞれの見解による模型が展示されている。「出雲国風土記の世界」室では奈良時代における自然や景観と人々の生活の姿がわかる。「青銅器と黄金の大刀」室では荒神谷遺跡出土の358本の銅剣、16本の銅矛、6個の銅鐸、加茂岩倉遺跡出土の39個の銅鐸が飾られ古代のパワーに圧倒された。

    博物館を出て西に向かい、左手に出雲お国の墓を見てまっすぐ進むと弁天島と白砂の稲佐の浜に出る。ここは大国主大神と建御雷神が国譲りを協議した場所である。日本百渚のひとつでもある。

    ここから北西に日本海の絶景を見ながら行くと、日御碕神社の全貌が見える場所を経て、石造りでは日本一高い43.7mの日御碕灯台につく。隆起海食台の上に立つ海抜63mの白亜の灯台は出雲の景観の一つである。

    日御碕神社はスサノオノミコトを祭る上の社、天照大神を祭る下社がある。下社は伊勢神宮の「日の本の昼を守る」に対し「日の本の夜を守れ」という勅命を受けたことから「日沈の宮」という。神社から海辺にでるとニャーニャーと鳴くウミネコの子育ての時期で経島(ふみしま)はカモメ科のこの鳥でひしめいていた。

    国引き神話

    スサノオノミコトが治めていた出雲は小さな国であるばかりか帯のように幅が狭かった。スサノオノミコトの4代の孫にあたる八束水臣津野命(やつかみずおみつのみこと)はこれでは大きな事業ができないと思い、海岸の高い山に登って余った国を探したら、新羅のみ崎が見つかり、綱をかけて「国来い国来い」と手繰り寄せたのが杵築の御崎(大社、日御碕から小伊津あたりまで)で、綱とかけた杭は今の三瓶山、綱が薗の長浜(稲佐の浜の西に続く長い砂浜)である。次いで島根半島の真ん中部分、東側部分を引っ張ってき、最後に能登の国から、今の美保関にあたる部分を引いてきた。このときの杭の跡が伯耆大山、綱が弓が浜であると出雲国風土記にある。

    国引きが終わって広くなった出雲にやがて大国主大神が現れ、国譲りの話になっていく。

    古代の人たちは発想豊かなロマンティストであったようだ。縄文初期には宍道湖は日本海につながっていたが、三瓶山の三度の大噴火で火山灰で埋められていった。また神門川、斐伊川の土砂は簸川平野を形成していった。こんな地形変化を国引きの話で伝承していたのだ。

    平田ー玉造温泉

    新羅から国引きした日本海側の港をつなぐ道を通って平田にでる。風土記では楯縫郡沼田郷とあり、実は私の生まれ故郷。幕末から明治初期には平田木綿の品質の良さで京阪に売られていた。町おこしの一環として木綿街道ができ、百年以上の商家が連なって活躍している。また一式飾といって、陶器だけ、茶道具だけ、仏具だけ、という一式に制限した飾りが天神様のお祭りに町内対抗で行われた200年以上続いた文化がある。最近の優秀作品を十数店のショーウィンドウに常設してあり、それぞれの店先で楽しめる。時間の関係でゆっくり走ってもらい車の中から見学した。

    平田から南に向かい瑞穂大橋(斐伊川)から水の少ない斐伊川を俯瞰し、やがて宍道湖の南岸を東に行く。北側の宍道湖、2回目に国引きされた島根半島部分を見ながら走って、勾玉の看板で右折し玉造温泉の「松の湯」に到着。

    夕食と歓談

    夕食は写真に撮ったが、おもしろかった政治・経済・教育などに関する歓談は写真には記録できず、年老いて記憶力を失った頭で詫びるしかない。ずいぶんと良い話を皆さんがしていたことだけは記憶にあるが、内容は覚えていない。同席者のコメントで補足をお願いします。

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