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  • クラス1953新(昭28新)

    【九十七枚の百人一首/中川和雄】

    昭和20年の暮れ。國と人とがその持てるすべてを注いで戦い敗れた年も押し詰まってきました。その年の七月二十八日、夜の十時頃から、郷里 三重県 津市は米空軍の無差別爆撃にさらされました。市街地の七十三パーセントを炎上させた猛火の中に、家と家財のほとんどを失った私たち家族八人は、鈴鹿山系に近い叔父の家に身を寄せていました。

    「お正月には百人一首をしたいな」という気持ちがみんなの胸に湧いてきました。毎年々々、正月にはみんなで百人一首を楽しむのが習わしでした。けれど、戦禍の家と街に百人一首はありません。誰が言い出したか、今となっては思い出せませんが、「では、作ろう!」ということになりました。

    きょうだい五人、手分けして。厚手の紙を かるた札の大きさに切り、家業であった中川屋呉服店の包装紙で表装をしていきます。包装紙は薄いセピアの地色に淡い紅と黄緑の平行線を、斜めにぼかしであしらい、所々には屋号をすかしで散らした落ちついた感じの包み紙でした。できあがっていくかるた札には、父が諳んじる百人一首の和歌を一首一首、母が毛筆でしたためていきます。

    「秋の田の かりほの庵の とまを荒らみ・・・・・わがころもでは つゆにぬれつつ」

    詠み人の肖像はないものの三十(ミソ)一(ヒト)文字(モジ)の読み札と下の句を仮名書きした取り札との二枚一組です。ところが ど忘れというか、父は三首だけ詠い出しの言葉がどうしても思い出せません。できあがったのは、百枚の取り札と九十七枚の読み札になりました。仕方がありません。九十七枚で百人一首をすることになりました。

    「ひさかたの 光のどけき 春の日に・・・・・」

    敗戦のわが國にも平和の新春がめぐってきました。庭に面した広縁の明かり障子には、初春の光がやわらかく照り添っています。取り札を並べた八畳の間借り座敷には、若かった母のよく透る声が流れます。

    「しづこころなく はなのちるらん。しづこころなく はなのちるらん。」

    戦禍を経た人々はようやく立ちなおろうとしていました。

    それにしても、戦災を受けていた一家に、何故 呉服の包装紙が残っていたのだろうか。

    セピアの包装紙は、ご来店のお客様がお買い上げくださる度にその反物を包んで差し上げていました。想うのは、地方都市への空襲が激しくなった頃、僅かばかりの家財を、山あいに建つ知り合いのお寺に預かって戴いた折り、昭和十七年公布の企業整備令にしたがって心ならずも廃業した家業の想い出として、父母は包装紙をその中に忍ばせたのだろうか。 あるいはいつの日にか、再び家業を興す日のために包装紙を残しておいたのだろうか。

    父母が既に亡くなった今では、知る術のない思い出となりました。

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