11年間の東大生活の思い出/仁田旦三
1996年4月1日に東大に赴任した。そのときの主専攻長の石塚先生の所へ辞令をもらうように指示があり、14号館へ出向いた。3号館が電気系の建物と思っていたので、3号館も他学科が住まわれているにもかかわらず、電気系がいろいろな建物に分散しているのを初めて知った。これは、知合いを増やすのに適していると感じた。さて、そこで辞令を頂戴したが、そのときに「京大のよいところと東大の悪い所をご指摘下さい。」といわれ、想像を絶するすごいところへ来たとの印象が残っている。
この初日に、事務室でいろいろな手続きをするとともに東大本郷の地図をもらった。さまざまな門があることがわかり、いままでに学会などで来ていたので、その門の一箇所を除き、くぐっていることがわかった。くぐっていないのは正門だけであった。早速、正門に行ってみた。要するにいつも横から構内に入っていたわけである。
東大を外から見ていたころの印象は、研究のすばらしさや先生方の博識などいろいろあったが、東大のほうは学生を含めて発表が非常に上手であることである。この理由は、しばらくしてわかってきた。発表する機会を多くもっていることである。特に大学院の「輪講」はすばらしいシステムと思っている。 しばらくすると、いろいろな方から東大と京大の違いや東大生と京大生の違いは?との質問を多く受けることになった。誤解を恐れずにいうと東大生と京大生の違いは、講義の質問とその答えの後の発言である。質問は当初、東大生のほうが圧倒的に多かった(最近少ないのが寂しい)。答えの後「ありがとうございました。」が東大生で「わかりました」が京大生である。このことに関していろいろな考え方がある。さて?
東大に移って5年ほどは、実にハッピーの連続であった。相談会での海外出張報告など魅力があった。また、東大の名前のおかげで未来開拓事業にも参画でき、研究もうまくいっていた。ところが最近は、電気系の不人気の問題に悩まされている。これは世界共通の問題であることもわかってきた。ヨーロッパや韓国では、人気がもち直しているようである。しかし、東大はまだまだ低迷している。こちらへ来てからの問題であり、しかもその後半に生じたわけであるから、責任は痛感している。どうも昔に人気があったころの人気の理由と現在の不人気の理由が同じように思える。電気は見えないことが魅力であったと思うが、とかく最近は目に見えるものにしなければならないとの風潮がこの問題の原因の一つではないかと思っている。
広い意味での電気工学の領域は、物性からシステムに及ぶ広範囲にわたっている。それぞれの電気屋はこの領域の中を自由に動きながら自身のID を構築してきた。この広範囲性や自由度の高さも最近の不人気かもしれないが、このよさは残さないと電気のID がとれない。早いうちに専門性を確定する専門学校的な流れは危険である。「電気」はさまざまなものを取り込む柔軟性も重要であり、決して排除の論はとるべきではない。
在職中に電気系の教員・職員・卒業生・学生の方に非常にお世話をいただいた。たいへん感謝している次第である。東大電気を一言でいえば、「親切」な集団である。
(昭和42年京大電気第二卒 工学系研究科電気工学専攻教授)