• 最近の記事

  • Multi-Language

  • 3機関での研究生活を振り返って/髙野忠

    同窓会誌に寄稿する機会をいただき、光栄に思います。私は1972年博士課程修了と同時に、電電公社(現NTT)に入り、1984年宇宙科学研究所(現JAXA)に移り、1991年からこの3月まで東大の併任教官をさせていただきました。したがって、東大から見て外部機関、親類機関、そして東大という3機関で経験したことを中心に述べたいと思います。

    研究生活は10年で1区切りつける、という人がいます。私の場合振り返ってみると、たまたまそういうことになっています。主な研究テーマと共に書くと、つぎのようです。
    Ⅰ期(1972~1984):マイクロ波中継用アンテナ、衛星通信用アンテナ
    Ⅱ期(1984~1997):臼田64mφアンテナ局の運用立上げ、ボイジャー2号探査機と臼田アンテナを用いた海王星の大気観測、太陽観測衛星ようこうの開発管理、スペースVLB 用展開アンテナ
    Ⅲ期(1997~現在):宇宙ごみ(デブリ)の観測、超高速衝突や岩石破壊によるマイクロ波発生、マイクロ波による地震・火山噴火の探知
    ただし全体通した基礎研究として、アンテナや無線通信の研究を続けています。

    こうしてみると、各期での研究項目は、ずいぶん性質が異なります。Ⅰ期では、通信事業にすぐ使われるものを開発するのだから、たいへんです。プロジェクトで動き、メーカーと勉強し合いながら、仕事を進めます。つねに時間を意識する必要があり、会議の連続です。これは研究計画を綿密に練って、誰でも実行できるようにするためです。しかし研究資金は潤沢で、出張の金で苦労したことはありません。福利厚生も立派です。ここでは、電電公社という安定な組織と、よい上司・指導者に恵まれたことが重要と思います。大学時代にアンテナを特に研究したわけでもない私に、技術面をすっかり任せてくれて、周囲条件を整えてくれました。

    それがⅡ期の宇宙科学研になると、ガラっと変わります。研究所内で認められたプロジェクトをしましたが、会議はほんの少しで、金については分野の長にいえば済んでしまいます。しかし扱う金の単位が1けた下がり、かつ計画から実行までほとんど一人で考えることになります。電気系の長が、「業務すなわち宇宙科学へのサービスはやらねばならない。しかし自分の研究も並行してやって、初めて一人前である。」といった言葉に、感じ入りました。

    第Ⅲ期での研究は、プロジェクトを立ち上げていく過程です。したがって研究資金は、外部からもって来ないといけません。前の期におけるような傘はもはやなく、その代わり新しい事にチャレンジする優秀な学生に恵まれました。彼らと議論しながら、つぎつぎと謎を解いていくことは、胸躍ることです。外部の大学や研究機関の人と共同研究を行っています。

    さて東大では、それまでの経験と宇宙科学研という組織の特殊性を生かすようにしました。まず講義では、扱うものの実際が目に見えるように努めました。そうしないと、マクスウェル方程式を語り始めた途端、学生の目がたるんでくるのです。またことあるごとに、宇宙活動において電気系の人の役割が大きく、活躍の場が多いことを説明しました。そのせいか、意欲のある学生が相模原キャンパスに来てくれたのは嬉しいことです。

    振り返ってみると、自分が仕事をすることができるのは、人のおかげなのだとつくづく感じます。ときに応じ、上司や同僚、部下、学生と、困難を乗り越えてきました。結局1人でやれることはきわめて限られており、むしろほとんどないということを、早い時期に認識すべきと思います。

    (昭和42年電子卒 工学系研究科電子工学専攻教授)

    コメントはまだありません »
    Leave a comment

    コメント投稿後は、管理者の承認まで少しお待ち下さい。また、コメント内容によっては掲載を行わない場合もあります。