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  • 吹きくる風が私にいう/中谷一郎

    この3月で東大の定年を迎え、本郷を離れるにあたり、同窓会報の欄を拝借する光栄に浴することになりました。表題は中原中也の詩の一部で「…あゝおまへはなにをして来たのだと…吹き来る風が私に云ふ…」という一節からの引用です。お前は、いったいなにをしてきたのだと、風ならぬ、同窓会会報の幹事さんに問われたわけで、まったく冷や汗三斗の思いです。

    振り返ってみると1969年に、東大付属宇宙航空研究所の東口先生のところに博士課程の学生として飛び込んだ時期はちょうどわが国の宇宙開発の揺籃期でありました。それから38年間、私自身が偶然、日本の宇宙開発の発展と同期して、育つことになったのは幸せでありました。

    私の大学院時代には、わが国初の人工衛星がなかなか成功せずにマスコミにひどく叩かれて宇宙研の先生方は針の莚に座らされている状態でした。そんな中で、じっとしておられず、私は卒論、修士研究とも半導体をテーマにしていたのですが、博士研究から一転、宇宙の制御の分野に飛び込みました。東大が人工衛星「おおすみ」の打上げに成功し、世界で4番目の衛星打上げ国となったのが1970年、私が博士課程1年のときのことです。もちろん、「おおすみ」には、私の寄与はまったくありませんでしたが、うれしかったのを覚えています。

    その後私は当時の電電公社の研究所に入所し、10年ほど国内通信衛星方式の開発に従事しました。ここでは、実用通信衛星が地上の方式(例えば、光通信網)と比して経済性で優位に立てるか否かという、国の機関の苦手な観点から勉強できたのは、後にたいへんに役立ちました。 宇宙研が東大から分離し、全国の大学共同利用機関として独立したのが1981年で、このときに私は助教授として宇宙研に戻りました。その直後から、人工衛星打上げ用のMロケットおよび観測ロケットの誘導制御系の開発に忙殺されました。小数点一つのミスが100億円規模の損失につながり、新聞のトップを飾りかねない厳しい分野で鍛えられました。この分野の職業病であるひどい慢性の胃潰瘍にも一人前に悩まされました。お医者さんからは「ストレスのない状態で、のんびり生活すれば全快」というあり得ない処方箋をもらい続けていまに至っています。

    東大大学院の電子コースの併任となったのが1988年のことです。そのころには、ロケットに加えて科学衛星の開発にも首を突っ込み始めました。科学衛星は本質的に、世界最先端を狙う宿命にあります。実用衛星と違って、巨費を投じた挙句、2番煎じは許されないからです。わが国の宇宙開発は米・ソにはるかに遅れてスタートし、しかも予算は米国の1けた下という状態です。米国のような絨毯爆撃的な科学衛星戦略は望むべくもありません。狙い済まして、限られた分野への重点化戦略を練りに練って、その分野では世界のトップに鼻を出すというのが宇宙研の基本方針でした。その結果、わが国の宇宙科学が世界でも高い評価を得るようになったのは本当に僥倖といってよろしいかと思います。

    私が参加する幸運に恵まれたプロジェクトの中から印象に残っているものを挙げてみましょう。オーロラ観測衛星「あけぼの」、米国と共同で開発した磁気圏尾部観測衛星「GEOTAIL」、わが国初の惑星探査機で火星を目指した「のぞみ」、そして現在はすばらしい観測機器を搭載した太陽観測衛星「ひので」に参加しています。それぞれに物語が一つずつ書けそうな苦労と感動のドラマがあり、ここではとても意を尽くせませんが、これらのエキサイティングなプロジェクトに参加できたことは本当に幸せでした。

    一方、研究テーマの一つとして宇宙のロボットにも深くかかわってきましたが、最近、わが国の月・惑星探査がようやく本格的に立ち上がろうとしていて、宇宙ロボットも本番間近かというところです。わが国の宇宙科学はこれからがますます楽しみであるといってよろしいかと思います。

    ここで紙数が尽きました。長いこと本当にありがとうございました。

    (昭和42年物工卒 工学系研究科電子工学専攻教授)

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