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  • 我が魂の故郷 旧制第一高等学校/濱崎襄二

    [序]

    「わがたましいの故郷(ふるさと)は いまも緑のわか草に
     春の日光(ひざし)のうつつなく  柏の森の葉がくれに
     高きを恋いて日もすがら     小鳥はうたい暮らすらん」
          [第26回記念祭寄贈歌 大正5(1916)年 京大]
                      (第一次世界大戦3年目)

    この歌に戦乱の翳はありません。同年の別の寮歌(北寮)には、

    「醒風(せいふう)高く空に舞い  暗雲低く地に迷う
     千里の山河紅(あけ)に染み   北欧の人狂うとき」

    とあります。しかし、この戦乱が文明を滅ぼすとの認識は無かったようです。

    私は昭和6年、満州事変勃発直後に生れ、主に明治後半以降にお生まれの先生方の薫陶を享けて少年時代を送りました。昭和12年からのシナ事変前の世相も垣間見ましたし、内地における戦争と敗戦の、苦悩と悲惨を目の当りにしました。そして敗戦後、教育制度など、明治の大先輩の血と汗の結晶が崩れ行くのを、止める努力も叶わず今日に至りました。

    私は旧制第一高等学校理科甲類3組、理科端艇(たんてい)部、昭和24年3月の第一学年修了生です。この学歴は新制大学入学試験の受験資格でした。お読み頂く多くの方々には遠い昔かも知れませんが、私にとって、旧制第一高等学校は「わが魂の故郷」です。本稿では、この学校の最後の姿を見た一人として、その見聞、経験を、極短く述べたいと思います。

    しかし、この学校を語る時には、重い遠慮を伴うのです。それは、私は僥倖に恵まれて、この学校を見聞、経験できたのであって、偶々、運に恵まれなかった人に理解を求めるのは、とても難しいからです。しかも、私はこの学校について、極めて限られた知識しか持っておりません。しかし他方では、今後、この学校を語る人は希有になるでしょうから、大変に僭越とは承知の上、敢えて禁を破って、また、殿軍(しんがり)を勤める者の義務と考えて、この筆を執る事にしました。

    [敗戦から昭和23年まで]

    昭和23年と今日とでは、社会背景は大層違います。昭和23年春には、第二次世界大戦後の極東軍事裁判、所謂東京裁判、は終盤を迎え、毎日のように報じられていました。占領軍による陸海軍の解体、旧財閥の解体、それらの中堅層人物の公職追放はほぼ完了。“新円切り替え” と経済破綻、食料不足とインフレーションの猖獗(しょうけつ)、農地配分と国語改変は一段落していました。教育制度の破壊的改変は進行中でした。東京裁判の真最中に、唐突に、新憲法案が公表されました。国防軍を持たない “独立国” など、少年の耳にも聞いたことがない空言で、無条件降伏の悲哀を噛締めるばかりでした。シベリア抑留者の送還が始まり、その他の復員兵士・海外在留邦人の送還/ “引き上げ” は、まだ続いていました。

    都市部では、占領軍兵士が交通整理し、占領軍キャンプの周辺では、その兵士が歓楽街に溢れていました。帝銀椎名町支店では青酸カリ殺人事件が起こりました。しかし、出征兵士を送る “今生の別れ” は絶え、戦死公報は稀になり、皆、日本の復興に望みを繋いで精一杯の生活を営んでいました。日本全滅に突進した戦争は終っていました。闇市を裸電球が煌々と照らし、売り手の若衆は活気に満ちていました。日本は昔からの島国ですから、ドイツの混乱と異なり、敗戦の大混乱と貧窮の中でも日本人としての共同意識は保たれました。

    婦人の権利拡大も進行中でした。暦を遡って見ますと、占領軍(GHQ)は昭和20年12月に婦人参政権を決め、翌21年1月に公娼廃止指令。2月には、「東京大学は女子に門戸を開く」と総長が言明、その年から女子学生が進学。4月に日本政府は、GHQ策定の「ひらがな口語体憲法草案正文」を発表、11月3日、日本国憲法公布。旧制高等学校受験に先立って、全国的に、「進学適性検査(後のIQテスト)」を実施。翌22年4月、教育基本法と学校教育法を施行。

    旧制高等学校については、それらを国立大学に含める案と、カレッジ(独立学校)として前期大学を担わせる案(全国高等学校校長会議案、議長は第一高等学校天野貞祐校長)とが審議されました。しかし、GHQ要請で設置されていた教育刷新委員会(委員長は東京帝国大学南原繁総長)において昭和22年12月下旬に後案が葬られ、旧制高等学校の消滅が決まりました。帝国大学側からの切り崩しも激しく、旧制高等学校側は成す術も無かったようです。天野校長は「船は沈んだ。船長は船と運命を共にする」と、昭和23年2月辞職。(昭和23年4月には新制高等学校発足。5月にイスラエル独立宣言。11月に東京裁判結審。12月に巣鴨プリズンで死刑執行)

    [第一高等学校の発祥]

    明治維新によって膨大な犠牲を払って、日本は辛くも植民地化を遁れました。新政府は 「富国強兵」 を国是とし、その教育制度を整えると同時に、勅命によって、幹部養育学校を創設しました。これらは何れも、富国強兵策の中堅人材を養育するための官立学校であり、そこでは旧くからの伝統に則り、広く公平厳正な選抜の上で、愛情の中にも厳格苛烈な教育を施しました。

    第一高等学校は、東京大学で(欧米人教師からの)聴講に必要な、そして、欧米知識の吸収に必要な、外国語学力養成所として発祥し、旧くは、東京英語学校、(東京)大学予備門 と呼ばれました。次に、その発祥を略述します。

    第一高等学校の母体となったのは、東京大学に併設された(東京)大学予備門と、それを継承した第一高等中学校でした。ここで、(東京)大学予備門は明治11年卒業( 87名)以降、卒業生総数は 491名。それを引き継いで(明治19年「中学校令」により改編)、第一高等中学校は明治20年卒業(190名)以降、卒業生総数は 1,317名。

    明治27年(第一次)高等学校令により、第一高等中学校を第一高等学校に改称、文部省所管の独立した官立学校になりました。そこでは、明治28年卒業(230名)以降、最後の昭和25年3月(493名)まで、卒業生総数18,633名。(但し、昭和24年3月の第1学年修了者405名を含む)

    東京大学の(初期)沿革:
    東京大学の前身は、明治維新直後の明治2年、昌平坂学問所、開成所、医学所を統合設立した「大学校」。明治4年(1871年)に、昌平坂学問所を廃止。開成所、医学所はそれぞれ大学南校、大学東校に改称。その後、この二つの学校をそれぞれ東京開成学校、東京医学校に改称。東京大学は、後者の二つの学校を明治10年に官立として統合設立したもの。明治19年には、「帝国大学令」により「東京帝国大学」に改称、同時に工部大学校(工部省所管)を併合して定数増員。

    なお、第一高等学校と同時期に、国防のための陸海軍の将校養育学校と農業近代化のための農学校が創設されました。

    第一高等学校と同時期に創設された陸海軍学校と農学校:
    明治 2年 兵学寮 創設
    明治 4年 陸軍兵学寮と海軍兵学寮とに分離
    明治 5年 陸軍兵学寮の中に「士官学校」「幼年学校」
         「教導団」を設立
    明治 5年 開拓使仮学校(東京芝)創設
    明治 7年 フランス式陸軍士官学校開校(東京市ヶ谷)
    明治 7年 開拓使仮学校を移転、
         札幌学校(開拓使札幌本庁所管)に改称
    明治 9年 海軍兵学校 開校(東京築地)
    明治 9年 札幌学校を札幌農学校に改称、
         学士号授与権を持つ最初の学校
    明治20年 陸軍士官学校 ドイツ式に移行
    明治21年 海軍兵学校 広島県江田島に移転
    ・・・・
    その後、札幌農学校は、明治40年に東北帝国大学農科大学に改編、大正 8年に北海道帝国大学農学部に改編。陸海軍学校は、敗戦の昭和20年に解体廃止。

    [自治寮]

    第一高等学校が駒場に移転した直後頃

    旧制第一高等学校は全寮制でした。即ち、全生徒が学校の寮で起居を共にし、寮も教室も運動場も、生活一切の場を道場として修行に励む、と云う制度でした。若者が起居を共に修行するのですから、女人禁制[下段の注釈]は大前提でした。昭和23年当時、「全寮制」の官立高等学校は第一高等学校だけ、と思っています。

    自治寮の起源は第一高等中学校の初期、明治23年早春に遡ります。時の木下廣次校長が、世の放縦横肆(ほうじゅうおうし)な書生との同宿生活では、到底、本校生徒の文武両道の修行が覚束ないと憂い、学校が一ツ橋から本郷向ヶ丘に移転し、東寮、西寮、2棟が完成した時を機として、「四綱領」を規範とした自治を促した事に始まりました。生徒は旬日にして結束賛成し、ここに全寮制を目指した自治寮が発足しました。

    「四綱領」は、自重廉恥、親愛公共、辭讓静粛、攝生清潔、であり、鑑とすべき徳目と共同生活の規範とが挙げられていました。明治33年に南寮、北寮、中寮が完成し、翌年から、名実共に全寮制自治寮になりました。この発祥の時から、全寮制自治寮は世の栄華(放縦横肆の徒)と隔絶された “籠城” の気構えを根幹とし、生徒の自覚とモラルの高揚が要請されました。大正に入ってから世界動静と呼応して “籠城” に歯止めが掛り社会性志向が強くなりましたが、自治寮精神は大方針として永く護られました。

    寮生問題の大方は、部(サークル)又は部屋の代表である数十人の総代で構成された総代会で議決されました。投票総数、賛成票数、反対票数、は1票であっても集計記録されました。(賛成多数、反対多数、と云う曖昧さを残す表現をしない)全寮生の選挙で選ばれた正副の寮委員長と十数名の寮委員がいて、総代会に議案を出しました。寮委員は庶務、風紀点検、食堂、共済、などに分かれていました。

    ここに“風紀”とはモラルを指しました。風紀点検委員(通称、フーテン)は、自治寮のモラル維持の番人で、云わば、検察を担当しました。総代会は、多数決で決める制度と裁判とを担当しましたが、総代会で議決できない重要問題は、寮生大会に掛けられました。昭和23年には、所謂“正門主義(生徒の構内出入りは正門に限る、と云う決まり)” は無くなっていました。

    自治寮の年次記録は、「向陵誌」 に書き継がれ、その編纂は寮委員の責務でした。昭和23年には、その記録は1000ページを遥かに超えていました。新入生には一日をかけての入寮式があり、その日は朝から夕刻まで(10時間前後)、新入生は倫理講堂(後の教養学部第九大教室)に閉じ込められて、飲食無しで、寮委員長が 「向陵誌」 抜粋を読み上げるのを静聴するのが決りでした。静粛謹聴を保ち、新入生の逃亡を制止するために、寮委員が見張りに立っていました。

    寮規則と銘打ったものは、入寮式でも寮生活でも見た記憶がありません。寮規則のようなものは細目変更毎に常時変遷を続けており、寮運営の重要参照文書であった、と思います。総代会、寮生大会の論議・議決は克明に記録され、過去の前例は慎重に比較吟味されました。英米法の習慣法に倣って、文言で記述された “法” が持つ自縛的な制約を回避すべく運用されていたと思います。即ち、過去の事例(「向陵誌」 記載)を吟味して積み上げらえた不文律とそれを裏付ける参照文書に照らされて、自治寮が運営されていた、と理解しています。入寮式の一日は、この寮運営制度を叩き込むための行事でしたが、この事は知識がない新入生が知る由もありませんでした。(自縛的な制約:“法” を文章にすると独り歩きを始め、“法” を定めた精神とは別物に変容する事。昔スパルタでは、同じ理由で、文章に書かれた “法 ”を忌避しました。)

    元の柔術・撃剣の道場(無声堂)などには規範とすべき標語が掲げられていましたが、表現は多様でした。自重廉恥、至誠剛健、自由尊重、公明正大、礼節信義、は重要な徳目でした。(女人連込み等の)全寮制自治寮の存立妨害、(カンニング等の)学務妨害、その他、暴力行為、虚偽・詐欺、窃盗、などの破廉恥行為は寮生としての重罪でした。修行場としてのモラルの維持・発展が自治寮の最重要綱目でした。寮生大会で「退寮処分」が決まると、学務では、ほぼ自動的に「退学処分」でした。

    構外で起こった警察沙汰は、自治寮のモラルに照らして、処断されました。男女問題は構内で起こった時に取り上げられました。自由尊重の限度を超えたと看做されたからでした。寮内の「女人禁制」は全寮制自治寮の不文律の一つであった、と理解しています。

    寮生の間では、上級生、下級生の概念が無かったと思います。学年、年齢の差に関係なく、綽名(あだな)が本名とされ、綽名呼び捨て、敬語不用が原則でした。齢嵩、高学年の寮生は、実力も経験も豊富ですから、若い寮生の「先達」でした。即ち、先に修行を始めた修行者として、自分の失敗も成功も曝け出して、若い寮生の手を取って教え導く事が暗黙の「義務」でした。寮生の中には道学者修行を志す人が幾人もいました。私の時代、昭和23年には、海軍兵学校卒業生が同室寮生でしたし、各学年表裏2年ずつ修業する寮生がいましたので、6年位の年齢の開きは珍しくありませんでした。

    血気に逸る若者が同志を募って集団を結成し、その集団の “自治規則” を定めた時、往々にして過剰束縛に陥り、そのためにその集団の自滅的崩壊を招きます。例えば、幕末の「新選組」、近い例では、連合赤軍の「浅間山荘事件(昭和47年)」など。この過剰束縛を抑制する基本として、自重廉恥、公明正大、自由尊重、がありますが、自治寮における寮生年齢の開き(人生経験量の開き)もその重要要素でした。

    卒業の前、年に一度の記念祭がありました。その日の為に催し物が準備され、当日は、男女の訪問客で賑い、夜には篝火(かがりび)を囲んで夜通し寮歌を歌いました。前夜に大食堂で、全寮晩餐会(全寮茶話会)が開かれました。

    注釈:「女人禁制」と云う言葉
    「戦争は、優れた若者を選択的に殺す」、「戦争は、モラルと真実と教育を破壊した」と云います。「戦争の過去に囚われると、現実が見えない」と小鬼共が囁きます。

    私は敗戦後の国語改変を、「占領軍への迎合」と感じていました。自由を求めて進学を志したため、止むを得ず、新仮名遣い、新漢字を使う努力をしましたが、私の日本語の基礎は、敗戦の中学2年生までに慣れ親しんだ“読方”と“国語”と“国文”です。中学2年生までですから、中途半端は免れません。しかし、「女性」も「男子校」も、慣れ親しんだ言葉には無かったのです。(「女子」、「女学校」、「女学生」、と云う言葉はありました。「中学校」には「女子」はいませんでした)「女人」という言葉は、革命前の中国大陸では「女の人」と云う意味で(勿論「同志」とは限りません)広く使われていた言葉であって、決して差別的な言葉ではありません。日本にも古くから広く浸透していました。「男子」、「女子」の「子」は、元は、敬称の一つでした。

    「男性」、「女性」はとても奇妙な言葉遣いです。「男」と「女」と云う男女の性別を表す言葉に、何故わざわざ「性」を添えたのでしょうか?何時も違和感が伴う言葉です。

    「女人禁制」は、霊山、寺社、御殿、役所、などの定められた処には、女人が立ち入ってはならない事を表す言葉で、歴史的には長い間、広く使われてきました。東京帝国大学も第一高等学校も、そのような処でした。更に、第一高等学校の「全寮制」を維持するためには、「女人禁制」が必要でした。

    [学務]

    「学務は神聖にして侵すべからず」とされ、学務に関しては教授会決定が絶対でした。これは自治寮で受け入れられて守られた原則でした。

    広く将来有望な青年を選抜するための入学試験は、学務の最重要責務であったと思います。受験資格は旧制中等学校第四学年修了。学力筆記試験が大変重んじられました。試験科目と科目ごとの試験範囲は原則無制限でした。即ち、教授会決定によってその年の試験科目も試験範囲も流動性があり、受験生は、受験の真近かになって試験科目の概略を知る仕組みでした。受験生の選択は限られていました。外国語では、英語、ドイツ語、フランス語。理科では、物理、化学、生物。等々。試験時間には制限がありました。

    面接、身体検査、内申、進学適性検査評点、等々、曖昧さを遺す選考手段は、特別な時に考慮される程度でした。「履歴書の賞罰欄」に書き込むべき程の事件でなければ、「品行」、「盗癖」、等は、選考基準には含まれなかった、と思います。虚偽の排除には極めて厳正でした。「ある選抜制度を持続的に採用できるため」には、「試験後にも選抜過程を検証できる事が必須」と考えられていました。

    このような入学試験制度でしたから、筆記学力試験において腕に覚えのある若者は誰でも受験でき、幸運に恵まれれば合格して“一高生”になれる仕組みでした。受験生の年齢には開きがありました。日本全国から様々の特質を備えた青年が集まりました。都会風の貴公子然とした秀才、修験者の風貌を持つ若い道士、田舎からのポット出、など。新入生には皆、“難関を越えた喜びと安堵”と“将来の希望と怖れ”とが共通だったと思います。しかし、寮の不文律に対して重大違背があると追い出されます。授業に落伍・落第すれば、2年を限度に追い出されます。このような自浄機構が働いた結果、寮の資質が維持されていました。

    「学務の神聖」を維持するためには、教官選任において、第一高等学校の佳き伝統維持に対する情熱と共に、卓抜した学力・授業能力と優れた人格とを兼ね備えた人材を選ぶ事が必要でした。この様なことが可能であったのは、政府による、この学校の制度維持と財務的支持が不可欠であったのと同時に、日本中の第一線で活躍していた、そして、この学校を「魂の故郷」として親しみ愛した、情熱に溢れた大先輩、中先輩、小先輩の尽力あっての事でした。

    授業科目成績は100点満点の数字表示で、50点以上が合格でした。毎学期、期末試験結果は一覧表の形で、全生徒の成績が屋外掲示板に貼り出されました。必修制、学年制、3学期制でしたから、不合格科目があると「落第」、一つの学年の科目を2年以内に合格できないと「退学」でした。

    教授方法と成績採点は、教授会の下、各教官に一任されていました。そのため、各授業科目において教官個性は歴然でした。教官に対して、生徒からの綽名も批評も自由でしたが、生徒には教官選択の余地がありませんでした。しかし、授業内容、試験結果、人生進路、等についての質問や相談等のために、しばしば、生徒は教官を尋ねました。成績については、主要科目のみが厳格でした。成績順位(“番付け”)は成績総点の順位でしたから、“番付け”上位の(見掛けの)“秀才”と、主要科目で実力抜群の“俊秀”とは、多くの場合、別人でした。

    成績発表があると寮では“番付け”コンパが開かれ、“番付け”上位の生徒が費用分担を多く引き受けるのが一般的な慣習でした。

    一高(第一高等学校の略称)には岩元禎先生と云うお名前の、ドイツ語の大先生が長年教鞭をとっておられました。(岩元禎先生:明治24年に第一高等中学校文科ご卒業、明治32年~昭和7年の間は一高教授、昭和7年からは一高講師、昭和16年7月14日歿)

    岩元先生の教授法は独特で、生徒は、先生の音読、解釈・和訳を、教科書を睨んで、じっと聴いて、学び習い覚え込む事;ノートをとってはいけない決まり;試験の時には、授業時間に覚え込んだ通りの回答が要求される;と云うものでした。実際には、岩元先生は、解釈・和訳の文章とドイツ語の原文とが可及的厳密に対応するような、ドイツ語文法に合わせた、独特の訳語と日本語の言い回しとを考案され、これを教え込む授業法を実践しておられた、らしいのです。先生の教授法に気が付いて、それに沿って学び始めるまでが大変で、初めての生徒は軒並みに欠点、積み重なると落第。生徒の半数位も落第の年があったようです。

    私の数学の恩師、岡田章先生は昭和17年9月卒業組(理甲)でしたので、ドイツ語組(文乙、理乙)の生徒の大変さを良くご存じでした。(岡田章先生:東京高等師範学校ご卒業後に一高にお入りでしたので、東大理学部数学教室にご入進学後、直ちに召集を受けられ、陸軍歩兵二等兵として千島守備隊にて従軍。敗戦時には辛うじて捕虜を免れて大学に復帰された、と聞いていました。)

    岩元禎先生は、天野貞祐先生のドイツ語の先生でもあり、天野先生に、「教育者を志すならば哲学を学ぶように」と勧められたと聞いています。(ドイツ語の小池辰雄先生が書かれた「天野貞祐記念室に寄せて」に採録)

    [経験 昭和23年]

    【授業】理科の主要科目は外国語(3組では英語とフランス語)と数学(代数学と微積分学)とでした。昭和23年には食糧不足のため、40分授業が実施され、午前8時から正午40分過ぎまでに6時間分を学びました。1週間の授業時間数は、英語4時間、フランス語6時間、代数4時間、微積4時間、その他(8科目程度)は各2~1時間。フランス語の手解きと文法は、1学期間(3カ月半)の履修で終了、直ちに小説の講読でした。数学も純粋数学入門なので、数学論理に忠実な証明手順を理解するための、頭の切り替えが難題でした。繋ぎの論理記述を誤ると、前半満点、後半満点、総合零点、となりました。授業時間の開始、終了時刻、は厳格でした。体育では、出欠が成績の全てでした。

    【食糧事情】昭和23年はその前年と比較すると、食糧難は緩んでいました。4月の寮費は1800円/月。食事は、乾燥甘藷粉や乾燥鶏卵粉混入のコッペパン、スイトン;玉蜀黍・芋めし;タラ、サンマ、稀に鯨ベーコン;野菜類の煮つけ;等々。満腹には遠くても、多少の外食と自炊補食で過ごせました。同室友人の招きで賞味した家庭料理は、忘れられないご馳走でした。長い間、食堂委員を勤めた一人の道学者先輩は、6年に亙って寮生の食糧調達に全身全霊を懸けて没頭奔走し、遂に卒業できなかった、と聞きました。寮生活を送った2000人を超える寮生は、私も含めて、この先輩から恩を享けていたのです。

    【全寮晩餐会】年に2回(新入生歓迎、記念祭)、全寮晩餐会(全寮茶話会)が大食堂で開かれました。“おしるこ” が御馳走でした。この晩餐会には、第一線で活躍中の大先輩、老齢のため第一線を退かれた大々先輩の方々には、万難を排してのご出席を仰いでいました。寮生にとっては、慈愛溢れるご講話を拝聴し、勝手な若気の気炎を挙げ、大先輩のお顔を覚える機会でした。教室での授業時間、寮生活と並んで、この会は、人に怖じない心、即ち、“精神の自由” を学ぶ、極めて貴重な機会でもありました。盧溝橋事件の最初の銃弾は八路軍特務の挑発的発砲であった事もこの会で聞きました。

    【ボート練習】午後は曜日を決めて隅田川へ端艇訓練に行き、大学生のコーチと先輩寮生から教えを受けました。(その他の午後は、ソフトボール、食糧調達、自習、等。)艇と用具は “魂の顕れ” とされて鄭重に扱われ、コックスは、使用艇をピカピカに磨き上げて艇庫を清掃・整頓するのが日課でした。艇、艇庫、それ等の維持費、合宿費等は、先輩OBからの寄付で賄われていました。期間を決めて先輩OBを尋ねて、顔を合わせて寄付をお願いしました。これと “理端(理科端艇部の略)” コンパは、先輩OBと繋がる大事な行事でした。先輩OBは後輩を労い、援助を惜しみませんでした。運動部の訓練は、勝れた人格に触れ、大切な時間を費やして汗を流し、精神を鍛える修行であったと思います。人間は、身体と頭脳とを同時に鍛えられる程には、強靭ではありません。

    【寮歌】夕方からは、専ら部屋の先輩から寮歌を習いました。昭和23年4月には、選抜された歌詞のみ印刷された寮歌集がありました。寮歌は数が多く、それぞれの時代を映す歌詞は心を打つものでした。先輩が木タイル床を打つ音頭とその蛮声に合わせて、声を張り上げて練習に励みました。夜、就寝中に、ほろ酔いの、寮歌を歌う寮生一団に叩き起こされる事(ストーム)もありました。声を合わせて一節を歌うと隣の部屋に移って行きました。寮を出てから数十年の長い期間に亙って、寮歌は、“魂の故郷” を想い起こし、人生の失意を慰め、新しい勇気を奮い起こす、“心の歌” でした。

    【図書館】静寂と自由を求めて図書館に通った日々もありました。当時、図書館には約十万冊の蔵書があり、館内では、喫煙、飲食と同様、私語は厳禁でした。生徒が図書館の本を読む時には、図書出納を通して図書を借り、閲覧室で読みました。閲覧室は静粛で、他人から話しかけられる事はありませんでした。寮の自室から本とノートとを持参して自習する事が多かったと記憶します。静寂の中に自由があり、集中もできました。周囲には、一心不乱に本を読んでいる多数の先輩がいました。午後9時、退館・消灯でした。

    【寮の部屋】2メートル半幅位の突通し廊下の両側に自習室と寝室が向かい合って共通の部屋番号が割り振られ、部屋当り住人数は標準8~10人でした。寝台、自習机、長椅子、本箱、等は頑丈な木製。鉄筋コンクリート3階建てで、各階の端に、洗面・洗濯場と水洗便所、及び、広い階段と予備室(元舎監室?)と物置。各階に自習室と寝室の組が10組程。南寮、中寮、北寮、明寮、の4棟ありましたが、明寮は半分ほどの長さ。寮生数は全寮で千人余り。食事は、皆、大食堂で摂り、入浴は、皆、大浴場を使用しました。

    【寮の余暇】寮の部屋には、卒業寮生の遺産が眠っていました。“理端”の部屋には、和訳仏典、和訳マルクス資本論、蓄音機とクラシック・レコードなどが残されていました。しかし、その恩恵に浴する暇は僅かでした。先輩に勧められて、太宰治の「斜陽」を読み、天然色映画「シベリア物語」を見に行きました。生物の先生からプールの清潔さに注意を受けながらも、私には珍しかったプールで水泳を試みました。アルバイトに家庭教師をしている寮生が多数いました。「時間の切り売りだ」と云いながらも、その収入で映画を見たり本を買ったり、山に登ったりしていました。

    学校構内の建物配置と空襲による破壊

    【戦災の跡】昭和23年4月には、戦災の傷跡は生々しく残っていました。銀杏並木の南側の、本館、倫理講堂、図書館、特高館、同窓会館、及び、南寮、中寮、北寮、明寮、食堂、浴場、その他、何面もの運動場、等は残っていました。しかし、銀杏並木の北側の、物理、化学、生物、地質鉱物、等の実験室、準備室や大教室、本館西側の教官室・教官会議室の一帯、は器具の残骸と瓦礫の山でした。250㎏級爆弾の跡と見られる直径10m位の擂鉢型の穴も、親子焼夷弾の大小の無数の殻も、其処此処にありました。

    応召寮生を送る壮行の別れは、残った寮生一同の寮歌(第十四回記念祭 明治37年 北寮):

    「都の空に東風吹きて 春の吹吸(いぶき)をもたらせば
     東台花の雲霞み   墨堤花の雨灌ぐ   …   …」

    が歌われたと聞きました。夏草茂る瓦礫の中を歩いては、杜甫の(春望):

    「国破山河在 城春草木深 感時花濺涙 恨別鳥驚心 …」

    が、敗戦の悲哀の心に沁みました。

    【受験準備】昭和23年の第二学期が終わり、その年の記念祭が過ぎると、来春の新制東京大学教養学部受験の為の特別授業が加わりました。この入学試験では、受験科目は今風に細分された選択制でした。例えば、数学では数学Ⅱ(解析)を、歴史では日本史を選ぶ事ができました。全寮制は緩められて自宅通学が許され、特別授業は選択制、修了試験はありませんでした。年が明け昭和24年になると、第三学年の先輩寮生は進学学部を決めて受験しました。

    戦災跡の片付けが進められ、大きな木造バラック校舎が、数多く着工されました。新制大学の入学試験の日程も決まらぬ内に3月が過ぎ、流れ解散的に第三学期が終わりました。

    私は出雲出身の若輩でしたから、語学、数学、端艇、寮歌と、先輩を見習いながら、息吐く暇もない、充実した一年でした。それだけに新鮮であり、長かった少年時代の混沌の眠りから叩き起こされたような日々でした。

    [終焉]

    昭和24年の新制東京大学教養学部入学試験は5月半ばに実施されました。結果発表があって、入学式が本郷の安田講堂で挙行されたのは、6月末であった、と記憶します。7月に2~3週間の授業があって夏休みに入りました。矢内原忠雄教授が初代教養学部長でした。

    昭和24年から昭和25年に掛けては、第一高等学校の悲しい終焉に立合いました。この事については、稿を改めなければなりません。

    [後記]

    旧制第一高等学校を顧みる時、それを支えた「伝統」とは何を指していたのか?と云う命題に突き当たります。「全寮制」と「学務の神聖」とが「自治寮」の制度的根幹であった事は確かです。寮生の間では、自治寮のモラルの維持高揚が最重視され、学務では、持続性重視の厳しい選抜を実施し、その上で、主要科目を習得させるために厳しく鍛えました。その結果として、第一高等学校の卒業生の殆ど全員が、丘の三年(おかのみとせ)を慕い懐しみ、その維持発展に対して、熱情溢れる支援を惜しみませんでした。先人が血と汗で築いた学校の「仕組み」と、そこで育まれた卒業生の「理性」と 「義理と人情」 とが相俟って、「伝統」が護られたのでしょう。

    義理と人情は、古今東西を通じて、モラルの基盤でした。しかし、実世界では、義理と人情が世界を狭くして理性の鏡を曇らせてはならないのです。日露戦争の戦後、第二次世界大戦への突入、それから、今日の“功利的グローバル化世界”への対応、など、過去と現在の日本では、理性の鏡が容易に曇る、と見えるのです。更に今では、義理と人情も薄くなっています。

    時は移り、旧制第一高等学校の終焉から70年を経ようとしています。自治寮は、卒業生の熱意と全寮制による自浄機構に支えられていました。全寮制は女人禁制が前提になっていましたが、国公立学校では女人禁制は消え去りました。教育の大衆化によって、学務の神聖も崩れ去りました。

    将来に向かっての出発点は現在です。その現在では、旧制第一高等学校を育んだ諸条件が無くなっているのです。この差異が充分に理解された上で、第一高等学校の事績が、将来の教育を策定するための歴史的な参照資料として役立つ事を切に願って筆を擱きます。

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