「イスラム国」事件に思う/鳥越寿二
区>会員, 記>寄稿 (2015年度, class1959)
○今年1月20日に所謂「イスラム国」に拉致された二人の日本人(湯川遥菜、後藤健二両氏)の映像が公開されて以降、日本全体はこのテロ事件にくぎ付けとなった。結果的には、1月25日に湯川氏、2月1日に後藤氏殺害の蓋然性が確認され、事件そのものは無残な決着となった。この間の動向は政府公式発表や国会でのやり取りを含めて、テレビや新聞で報道され解説の情報も流された。普段国際テロとか中東問題やイスラム教について十分な知識を持ち合わせていない私にとって、今回の事件は、わが国の外交や国防のあり方、さらには日本人論といった広くて深い問題について色々考えさせられる出来事であったが、それを理解する上で次のような資料が参考になった。
・1月27日付日本経済新聞 経済教室 池内 惠「イスラム過激派の脅威-『テロ思想』強まる拡散懸念」
・2月1日NHKスペシャル「追跡『イスラム国』」
・2月9日テレビ朝日「池上彰が伝えたい『イスラム国』問題知るべきこと」
○イスラム政治思想を専門とする東京大学の池内 准教授は、「全世界のイスラム教徒(世界人口の約6分の1、10億人超)の大多数は、平和を望み、法を順守する市民である点で他の宗教や無宗教の人々と変わらない。問題となるのは教義に含まれる政治・軍事的な規範であって、その特定な解釈を強制力(ジハード=聖戦)で実践しようとするイデオロギーである。」と述べている。
歴史を遡れば、ムハンマド(AD570頃~632、日本の聖徳太子と同年代)が610年に神・アッラーの啓示を受けたのがイスラム教の始まりである。彼とその信徒たちはアラビア半島の多神教徒を制圧し、彼の死後更に半島を超えてユダヤ教徒やキリスト教徒との接触を通して拡大して行った。こうして成立したイスラム諸国は、歴史的経過の中で西洋起源の国際法秩序や人権規範を受け入れるようになっていたが、20世紀の後半以降、外来の規範を排除して再びイスラム法を施行しようとする潮流が広まった。
ここで問題となるのは、原理主義的な法から逸脱していると解釈される現状を撤廃するために、武力によるジハードを信仰者の義務だと唱導する「過激なジハード主義」が伸長したことである。東西冷戦の中、1979年ソ連のアフガニスタンへの侵攻と内戦は、体制に封じ込められていた「ジハード戦士」が義勇兵として結集する契機となった。冷戦終結に伴いソ連軍は撤退したが(1989)、これらの「戦士」らがその後のテロリストの源流となった。
・1990年イラクのクウェート侵攻を契機とする湾岸戦争(1991)
・2001年米国での同時多発テロとこれを契機とするアフガニスタン紛争
・2003年のイラク戦争
・2010年~2012年の「アラブの春」
といった一連の出来事を通して、いくつかのイスラム国家の旧体制の崩壊あるいは政治的混乱が齎された。これに乗じてテロを伴ったイスラム過激派の個別的な活動やその相互連携があちこちで惹き起こされている、というのが現在の中東情勢のようである。
○池内氏は日経新聞経済教室の論説を以下の言葉で結んでいる。
「『イスラム国』の地理的拡大は空爆などで食い止められるが、イデオロギーの拡散は軍事力では阻止できない。各地でイデオロギーや行動に共鳴する集団が勝手に「イスラム国」を宣言し、世界各地がまだら状に「イスラム」になってしまう危険性を注視しなければならない。日本ではイスラム国に共鳴した集団のテロが起こる可能性は低いが、欧米起源の自由や人権規範が深くは定着しておらず、意見の異なる他者を暴力や威嚇、社会的圧力で封殺することへの抵抗が強いとはいえない。こうしたことは社会や体制への不満がテロの容認や自由の放棄をもたらす可能性と無縁ではない。」
この最後のくだりは、昭和40年代に発表された土居健郎氏の「『甘え』の構造」にも論じられていた、国際的に比較した日本人一般の精神的懦弱性に対する自戒の言葉である。今回の「イスラム国」事件は、グローバル化が一層進展している現代世界、一神教的ドグマ(※)が常識と思われている精神世界の中で、改めて日本人が生きて行く上での「心の根幹」を考えさせる機会を与えているように思う。
(※文末にイスラム教の六信五行と、キリスト教の三位一体使徒信条を掲げた。)
○日本人が初詣、お墓参り、葬式や法事、先祖崇拝などをもって心の拠り所としていることは、一つの宗教心のあり方だと言えるであろう。ただこれらの行動は他国の人からは、文学や習俗としては理解されても、自己満足あるいは家族中心の心情にすぎないと見做されるかも知れない。
これに対して、今回の事件をきっかけに私はこれまでに持っていた世界観、人間観が整理されて、却って明快に自己表現することができるようになったように思う。それを言葉にして見ると:
「恐れることはない。日本では千数百年にわたって脈々と仏教を基盤とする霊性(※)が培われている。それは自他一如の「悟り」を目指すものであって、インドなど東アジアの諸宗教とも共通するものである。仏教の教理を要約する下記の「四法印」が示すように、それは「宗教」というより、誰もが現実生活で体験する「事実」である。従ってそれは一神教を信奉する人々をも、無宗教の人々をもすべて包含して、この21世紀に生きる個人や組織が抱える、不愉快で困難な問題をも解決してくれる智慧だ。」と。
(※霊性 spiritualityの語は鈴木大拙の著作に見られ、人の思考や行動の根源となっている信仰・宗教のような至高の存在。現代科学に関する私の拙い知見からいえば、「心」が神経細胞の働きであるのに対して、「霊性」は神経細胞をも含めて、修行や訓練によって変化する全ての細胞の働きといえるのではないかと思う。拙稿「生きていることの秘密-智慧ある60兆個の細胞」(2014.05)参照)
○ 仏教の「四法印」を、拙訳の現代文と英文を添えて以下に掲げる。
四法印 仏教教理を要約する四つのことば
Four Dharma Marks of Buddhism
① 一切皆苦 この世に生きる上で、不安や苦悩が絶えることはない。
Sufferings never cease in lives.
② 諸行無常 不変のものはない。己自身を含めて、ものごとはすべて断え間なく変化している。
All phenomena including myself are impermanent, being continually changing.
③ 諸法無我 そのもの自体で存在しているものはない。己自身を含めて、すべては縁と相互関係によって成り立っている。
Whatsoever including myself have no self-essence, being conditionally and inter-dependently arisen.
④ 涅槃寂静 真実の智慧を拠り所とする時、不安や苦悩は解け去り、人は身も霊も寂静に目覚めたものとして生きる。
Relying on the Perfection of Wisdom fully awakes one to the bodily and spiritually serene Enlightenment.
○泳ぎを身につける場合と同じで、「四法印」は単なる知識の教えではない。ただ知性は目覚めへの入り口となる。四法印を知ると、例えば先に述べた初詣や先祖崇拝等の背後にある、人智を超えた何かに気付くかも知れない。稽古や訓練によってスポーツや芸ごとのコツや極意を会得するのと同じように、四法印を生活の智慧として意識的に念じていると、「自分とは何者か」、「この世界・この宇宙の不思議さ・美しさ」といったことに目が開かれ、自ずと「どのように行動すべきか」を指し示されるように思う。
イスラム研究者の池内 惠氏や心理学者の土居健郎氏が日本人の精神的弱点として指摘している特徴を私は素直に受けとめるが、正にそのことについて「四法印」は、明快で捉われない視点と、包括的な解決策を与えてくれるように思うのである。
ここではそのことについてこれ以上論じるよりも、むしろ実践者の模範ともいえる人物として、インドのマハトマ・ガンディー、米国の故スティーヴ・ジョブズ氏、現在国内外の多くの人から敬慕されている稲盛和夫氏の名を上げさせていただいて、本稿を閉じることとしたい。
※1 イスラム教の「六信五行」
○ 六信(基本的信条)
① 神 ② 天使 ③ 諸経典 ④ 諸預言者 ⑤ 来世 ⑥ 予定
○ 五行(基本的義務)
① 信仰告白 ② 礼拝、③ 喜捨 ④ 断食 ⑤ 巡礼
※2 キリスト教の「三位一体の使徒信条」
○ 神
天地の創り主、全能の父
○ イエス・キリスト
神の独り子、聖霊によって処女マリアより誕生、ポンテオ・ピラトのもとで受難、十字架上の死と葬り、三日目に復活、昇天、父なる神の右に坐す、再臨、生者・死者の審判
○ 聖霊
聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の生命
(2015.03.23)to-ri-go-e@nifty.com