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  • もう一つのグローバル化/尾上守夫

    明けましておめでとうございます。まず高齢者の元気がでるお話を。

    伊能忠敬(1745-1818)とその大日本沿海輿地全図(伊能図)は皆様よくご存知だと思います。佐倉の商人として成功した後に、50歳で家督をゆずり、江戸にでて幕府の天文方高橋至時に師事して天文観測、測量を学び、56歳から日本全国の測量をはじめます。測量をほぼ終えて没しますが、至時の子景保などが仕上げを行い、1821年に完成しました。

    現在日本人の平均寿命は80歳を越え、世界一を誇りますが、忠敬の頃はわずか34歳にすぎなかったと言われてます。ですから50歳といえば、今の後期高齢者。それが新しい学問を志し、大学・大学院に相当する期間みっちり勉強し、その後18年間にわたり徒歩で全国津々浦々をめぐって、当時の世界水準を越える精度の地図を完成したのですから、頭がさがります。これから第二の人生を迎える団塊の世代の方々もはげまされる所が多いのではないでしょうか。

    この図は現在の地図に伊能図を重ねたものです。よく重なっていますが、原点すなわち江戸から南北にはなれた北海道や九州では横ずれが目につきます。これは緯度の観測精度は高いが、経度の観測精度がそれに及ばなかったためです。緯度は北極星などの高度を測かれば求まります。事実忠敬は昼の疲れもいとわず、晴天の夜には天文観測を欠かしませんでした。伊能図にはその場所が星印で記録されています。しかし経度の測定は難しい。大航海時代の各国が等しく悩んだ問題です。

    英国は海洋の制覇に国の将来をかけ、チャールズ2世は子午線観測の先進国であるフランス(メートルはそこで生まれました)に範をとって、グリニッジ天文台を設置しました。当初は月の運行に基づいて経度を定める月距法のための観測が主だったのですが、その後ニュートンなども加わった委員会で、正確な時計で、太陽や星の南中時刻をはかることで、経度を定める方法が推奨されました。そこで英国議会は2万ポンドという、今でも大金ですが、当時としては高級官吏の年俸の100年分くらいの賞金をかけて、正確な時計を求めました。ハリソン(1693-1761)が27年間にわたって試作を繰り返し、4度目に仕様をはるかに上回る精度の時計を実現したのは1761年のことです。クロノメーターと名づけられたその時計は、まず軍艦そして商船と急速に普及しました。爾来英国の海図は正確無比との評判をとり、各国は争ってそれを求めました。1884年の国際会議で子午線の原点が、グリニッジ天文台に置かれたのはそのためだと言われてます。

    伊能図は長くわが国の地図の基盤となりました。その後、1887年(明治25年)当時東京天文台の子午環があった麻布の地(ソ連大使館の裏手)に日本経緯度原点が定められ、全国に三角点網が張り巡らされて現在の地図が出来てきたわけです。原点の経緯度は天文観測に基づき定められ、関東大震災による補正なども加わって、下記の値が用いられてきました。ところがGPSの普及により、経緯度は簡単に求められるようになりました。そうすると地図に記載された値との差が目立つようになりました。角度にして約12秒、距離にして約400メートルの差があります。GPSを信用して運転していると海に飛び込んだり、山頂をきわめたつもりが、谷底だったという事態が起こりかねません。仕方がないので、2004年に原点の値を下記のように改定しました。世界測地系による改定とありますが、要するにGPSの測地系にあわせたのです。

    旧経緯度 新経緯度 新経緯度
    -旧経緯度
    緯度 35度39分
    17.5148秒
    35度39分
    29.1572秒
    +11.6424秒
    経度 139度44分
    40.5020秒
    139度44分
    28.8759秒
    -11.6261秒

    昨年長時間露光のピンホール写真を例にあげて、立場を動かさずに長時間観測すると世の中の動きが見えてくるということを申し上げましたが、その立場もいつの間にか変っていたわけです。これもグローバル化の一つの姿でしょう。

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