66年会/クラス1944(昭19年9月)
昭和19年9月ⅠⅡ卒業のクラス会(昭十九会)は、2010年10月19日、東京八重洲の「ちゃぽん」で66年会を開きました。出席者は昨年と同様に宮本、矢部、藤井、島田、稲上の5名の皆さん。そこに渡部が取材も兼ねて参加。
このグランドシニアのクラスでは以前から昼の集まりを持っています。今回も会席料理とワインを嗜みながら四方山話ですが、今年はかなり話題が豊富でした。
昭和17年4月から本郷(Ⅰ工)と稲毛(Ⅱ工)に別れ、それぞれ2年半の学生生活を過ごすことになった皆さん。三食は大学で済ませる学生が多かったようです。しかし、若い学生の食欲を満たすには不十分。そこで、第二の仲間達は周辺の農家に出かけて、芋や落花生を買い出しに。でも時には、吹っ掛けられたこともあったとか。宮本さんが語るその後日談も愉快でした。
当時の学生に人気のあったゲームは囲碁。寮や三号館の上階で盛んに打たれたそうです。稲上さんの手記にあるように、寮でこっそり短波放送を傍受して、世界情勢を認識していたとのこと。その短波受信機を製作したのは、故人の田中喜洋さん。
そもそも、当時はラジオが最新メディア。初めて、ラジオを見たのはレシーバ付きの鉱石ラジオ。近所の金持ちの家には立派な真空管ラジオがあり、その音を垣根越しに聞いたとか、水戸の旧制高校には、物理の先生が組み立てたラジオが唯一あったなど、思い出話が続々。
本郷ではある日、大学から正式な依頼として大山教授から電波報国隊の説明があったそうです。その法的な手続きについては、矢部さんの手記が詳しい。さらに、雨の代々木練兵場の学徒動員壮行会に島田さんだけが参加した話では、他の4名には壮行会についての連絡がなかったとか。
神戸一中では、241名の卒業生がいたが、数年の間に、30名が戦死。その後、40年経って、新たな物故者は30名に留まった。戦死者が如何に多かったのか改めて知ったと稲上さん。
そんなこんなで2時間の予定が、大幅に伸びて4時間後、ようやく66年会はお開きとなりました。来年67年会の再会を約束して。(渡部直也 記)
渡部様には毎度お世話になっており感謝の極みです。お父さんの堅也君のことも思い出して、大変懐かしい思いでした。学生の頃、私が哲学の本を読んでいたら、僕にも貸せといわれお貸しした記憶が蘇って来ました。戦時中ではあったが学生時代の当時の学生の内面を御想像いただければと思います。
コメント by 宮本邦朋 — 2010年10月24日 @ 17:31