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  • リトアニア史余談122(最終回):無冠の王ヴィタウタスの死/武田充司@クラス1955

     ヴィタウタスの戴冠式は1430年の聖母マリア生誕祭の日(9月8日)にトラカイの城で行われることになり、その準備が進められた。ニュルンベルク(*1)では金細工師によってヴィタウタスと后ユリアナの王冠が作られた。そして、戴冠式への招待状が各地の王侯貴族たちに発送されたが(*2)、招待状が届く前にトラカイに向かって出立した人もいた。

     しかし、ヴィタウタスの戴冠を阻止したいポーランドの貴族たちはイェドルニャ(*3)に集まって策を練り、皇帝の使節団が通過するポーランドの街道を封鎖することにした。その結果、皇帝の第1の使節団はオーデル河畔に到着したところで捕えられ、第2のグループもプロシャとの国境で足止めされた。そして、彼らが運んでいた夥しい宝石類とともに、王冠と戴冠式の式次第を記した文書一式がポーランドの貴族たちによって没収された。
     首都ヴィルニュスには既に多数の来賓が集まってきていたが、戴冠式に必要なものがいつまで待っても届かないので、とりあえず、戴冠式を聖ミカエル祭の日(9月29日)に延期することにした。そして、ヴィタウタスは戴冠式に必要なもの一式を早く届けるよう皇帝に催促したのだが、ヴルニュス駐在の神聖ローマ帝国大使は、それなら王冠をリトアニアで製作してしまえばよいと呑気な提案をしてきた。しかし、そんなお手盛りの戴冠式などできないと、ヴィタウタスは皇帝から贈られる王冠に拘っていた。
     ところが、この混乱を煽るかのように、教皇マルティヌス5世は、聖職者に対して、ヴィタウタスの戴冠式を執り行うことを禁じる、という布告を出した。そればかりか、教皇はリトアニアやドイツ騎士団の人々に対して、ヴィタウタスの戴冠式への出席を禁じた(*4)。
     一方、ポーランドの貴族たちの暴挙に驚いたポーランド王ヨガイラは、急遽、ヴィタウタスのもとにやって来て、改めて、ヴィタウタスの戴冠を支持すると伝え、皇帝の使節がポーランド領内を通過するときの安全を保障した。また、皇帝ジギスムントもポーランド貴族たちの暴挙に激怒し、軍を派遣して彼らから王冠などを返還させたという。
     こうして、改めて戴冠式の準備が再開され、10月15日には皇帝の使節団がオーデル河畔のシュチェチン(*5)に到着したが、その翌日、ヴィタウタスは病に倒れ、10月27日、トラカイで亡くなった。一説によると、ヴィタウタスは客人とともにヴィリュニュスからトラカイに向かっているときに落馬し、騎乗できなくなって后の馬車でトラカイに運ばれ、しばらく床に伏したのち、息をひきとったと言われているが、このとき、80歳前後であったヴィタウタスは、戴冠式に集まった来賓の接待に疲れていたのであろう(*6)。歴史にイフ(if)はないというが、このときヴィタウタスが戴冠していたならば、その後のリトアニアとポーランドの歴史は変っていたかも知れない。
    〔蛇足〕
    (*1)中世のニュルンベルクは武具鍛冶屋や金属手工業などで栄えた都市で、神聖ローマ帝国の首都ともいわれ、多くの皇帝が好んでここに住んだ。また、皇帝カール4世が1356年に発した金印勅書によって、皇帝は即位後の第1回帝国議会をここで開くことになっていた。さらに、1423年に皇帝ジギスムントが神聖ローマ皇帝の正当性の証とされる宝物をここに委譲したことから、帝国都市としてのニュルンベルクの地位はいっそう高まった。こうしたことからも分かるように、ニュルンベルクはヴィタウタスの王冠の製作場所にふさわしい場所であった。
    (*2)招待状の多くはドイツ騎士団の要人に発送されたというから、当時のリトアニアとドイツ騎士団の良好な関係が想像されるが、ポーランドにとっては不愉快なことであったと思われる。
    (*3)イェドルニャ(Jedlnia)はラドム(Radom)の北東約15kmに位置する村である。また、ラドムはワルシャワの南方約90kmに位置している。なお、この年(1430年)の3月、イェドルニャにおいて、ヨガイラはポーランド貴族たちに諸特権を認める「イェドルニャの特権」に合意しているが、これは、当時、未だ世継ぎに恵まれなかったヨガイラが、その弱みにつけ込まれて、貴族たちに多くの特権を認めたものである。こうしたことからも、当時のヨガイラがポーランドの貴族たちの意向を無視してヴィタウタスの戴冠を支持することができなかったのだ。「余談121:こじれる戴冠問題」で述べたように、ヨガイラは彼らの反発に屈して戴冠支持を撤回したのだ。
    (*4)教皇マルティヌス5世の反対については「余談121:こじれる戴冠問題」参照。
    (*5)シュチェチン(Szczecin)はオーデル川下流左岸(西岸)の都市で、現在はポーランド領である。
    (*6)戴冠式に招かれた客の中には、ヴィタウタスの孫のモスクワ大公ヴァシーリイ2世(ヴィタウタスの娘ソフィアとヴァシーリイ1世の間に生れた子)や、リトアニアの影響下にあったトヴェーリやリャザニの公など、ルーシの正教圏の君主もいた。また、成吉思汗の孫バトゥによって13世紀半ばにカスピ海の北側に建国されたキプチャク汗国(ジョチ・ウルス)の汗ウルク・ムハンマド(第2期在位1427年~1433年)の使節も来ていた。ウルク・ムハンマドは政敵のバラクに汗位を奪われ、一時、リトアニアに亡命していたが、ヴィタウタスの支援で1427年に復位した人物で、この人の父はヤラル・アル・ディン(在位1411年~1412年)であると言われている。そして、ヤラル・アル・ディンも一時リトアニアに亡命していて、1410年の「ジャルギリスの戦い」ではヴィタウタスの配下で活躍し、その翌年にヴィタウタスの支援でキプチャク汗国の汗になっている。このように、ヴィタウタスの威光は遠く東方世界にも及んでいたことから、彼の戴冠式がカトリック世界の行事であるにもかかわらず、正教徒やムスリムの賓客もヴィルニュスに集まってきていた。おそらくヴィタウタスは、その人柄からも、こうした客人をもてなすことを楽しんでいたのだろうが、ポーランド貴族の妨害によって戴冠式の予定が乱されたことが大きな痛手となり、疲労が蓄積したのであろう。彼の落馬事故の話が本当だとすれば、それは、こうした心労と宴会疲れが重なった結果であろう。
    (番外)以前はドイツ騎士団を支援してヴィタウタスを苦しめていた皇帝ジギスムントが、この戴冠問題では一貫してヴィタウタスを支援したのは何故か。直接的には、ヴィタウタスがドイツ騎士団と和解したことであろうが、ボヘミアのフス派の問題も見逃せない。ヴィタウタスは宗教的情熱からフス派を支援していたのではなく、ドイツ騎士団とその背後にいるハンガリー王でありボヘミア王でもある皇帝ジギスムントを牽制するためにフス派を利用していたようだから、皇帝とドイツ騎士団がリトアニアに友好的になればフス派支援を止めることも吝かではなかったはずだ。また、一般論として、この当時のヴィタウタスの軍事力と東方世界への影響力に対して、西欧世界が一目置いていたことも無視できないだろう。
    (2022年3月 記)
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