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  • リトアニア史余談120:晩年のヴィタウタス大公/武田充司@クラス1955

     活動的でひと所に落ち着いて居られない性分のヴィタウタスも、晩年には首都ヴィルニュスの宮廷を留守にしてトラカイの城で過ごすことが多くなった。

     トラカイを愛したヴィタウタスはトラカイの城を整備して、その内部を豪華な装飾によって飾りたてた(*1)。また、身近に女を侍らせ補佐役に使っていたとも言われている(*2)。
     ヴィタウタスは読み書きができ、ドイツ語やラテン語を理解する文化人でもあった。また、身辺警護などにタタール人(*3)を使っていたから、タタールの言葉も理解していたようだ。実際、彼はロシア南部のタタール人たちとの交渉にタタール語で書かれた文書を発信していたという。しかし、カトリックの国となって日の浅いリトアニアでは、ロシア正教の文化的影響が未だ顕著で、宮廷ではラテン語やドイツ語と並んで、西ロシア地方の古いスラヴ語が使われていた。ポーランド語はまだ広まっていなかった。
     ヴィタウタスは、后アンナが亡くなって数か月後の1418年の秋、腹心の重臣イヴァン・オルシャンスキの娘で寡婦となっていたユリアナ(*4)と再婚した。ユリアナの母アグリピナはヴィタウタスの亡き后アンナの姉妹であったから、ヴィタウタスの再婚相手は彼の義理の姪ということになる。それ故、ヴィルニュス司教(*5)は、この結婚について教皇の承認が得られるまでは、婚儀を取り仕切ることはできないと言ってヴィタウタスを困らせた。結局、ヴィタウタスはヴウォツワヴェクの司教(*6)に頼んでこの年のクリスマス前に式を挙げた。ヴィタウタスがこのように再婚を急いだのは、彼に世継ぎがいなかったからであろうが(*7)、ヴィタウタスのユリアナに対する愛情は特別なものがあったと伝えられているから、彼は亡き后アンアの姪であるユリアナにアンナの面影を見ていたのかも知れない。
     ところで、様々な困難を克服してリトアニアを北東ヨーロッパの大国にしたヴィタウタスにとって、最後の悲願はリトアニアをローマ教皇に認められた王国とし、自身も戴冠してリトアニア王となることであった。
    $00A0 $00A01428年、神聖ローマ皇帝ジギスムントは、広く東欧の問題を話し合うために、リトアニア大公ヴィタウタスとポーランド王ヨガイラを招いて、ヴォリニアのルーツクの城(*8)で会談した。このとき、ヴィタウタスは自分のリトアニア王としての戴冠問題を早急に議論してくれるよう皇帝に催促した。その結果、翌年の1月10日、ジギスムントの呼びかけでルーツクにおいて大規模な国際会議が開かれた(*9)。ローマ教皇、ビザンツ帝国皇帝、デンマーク王、ドイツ騎士団代表などのほか、ルーシの諸公など中東欧地域のほとんどの君主が集まった中で、皇帝ジギスムントはヴィタウタスのリトアニア王としての戴冠を公式に提案した。こうして、ヴィタウタスの長年の夢が実現する第一歩が踏み出されたかに見えた。
    〔蛇足〕
    (*1)トラカイについては、「余談8:ヴィルニュス遷都伝説と神官」の蛇足(3)で述べたように、現在のトラカイと旧トラカイがあって、現在のトラカイには「半島の城」と「島の城」があり、「半島の城」は1377年頃にヴィタウタスの父ケストゥティスによって完成されたが、「島の城」は「半島の城」との連携によって防衛力を強化するために1350年頃からケストゥティスによって段階的に建設が進められ、主要部分が完成したのはヴィタウタスの時代で、「ジャルギリスの戦い」の前年(1409年)のことである。しかし、「ジャルギリスの戦い」の勝利以後、特に1422年の「メウノの講和」以後は、トラカイの城の戦略的重要性が薄れ、平和な時代におけるヴィタウタス大公の権威の象徴としての性格が強くなった。その結果、城内の大広間には豪華な装飾が施され、外国からの賓客の接待などに使われるようになった。こうした城内の壁面を飾る豪華なタペストリはビザンチン様式の図像画に類似しているが、これはルーシの正教文化圏を経由してビザンチン文化がリトアニアに入ってきていたからであろう。因みに、ポーランド王ヨガイラは1413年頃からヴィタウタスが亡くなる1430年までの間に13回もこの城を訪れている。
    (*2)15世紀のポーランドの年代記作者ヤン・ドゥウゴシュによると、この当時のリトアニアの運命は彼女らによって左右されかねない状態だったという。
    (*3)「余談77:リトアニアのタタール人」参照。
    (*4)ユリアナ(Juliana / Julijona)はカラチェフのイヴァン(Ivan of Karachev)と結婚したが、年代記作者ヤン・ドゥウゴシュ(前出)によると、ヴィタウタスがイヴァンを殺害させて彼女を寡婦とし、娶ったというのだが、どうだろうか。カラチェフはブリャンスク(Bryansk)の東南東約45kmに位置する小都市である。
    (*5)このときのヴィルニュス司教はポーランド人のピョトル・クラコフチク(Piotr Krakowczyk)で、このときまでヴィルニュス司教はすべてポーランド人が占めていた。最初のリトアニア人ヴィルニュス司教が誕生するのは、この司教の次の(第5代)司教「トラカイのマティアス」(Matthias of Trakai:「余談115:フス戦争とヴィタウタス大公」の蛇足(7)参照)のときである。
    (*6)このときの司教はヤン・クロピドゥウォ(Jan Kropid$0142o:在位1402年~1421年3月没)である。ヴウォツワヴェク(W$0142oc$0142awek)は現在のポーランド中部のヴィスワ河畔の都市で、ワルシャワの西北西約140kmに位置している。
    (*7)このときヴィタウタスは60歳代後半であった。なお、このあと、教皇マルティヌス5世はヴィタウタスとユリアナとの結婚に対して「教会法の特免」(dispensation)を与えて彼らの結婚を認めた。この当時、西欧カトリック世界は、バルカンに進出したオスマン勢力の脅威に対処するために、ヴィタウタスのような有能な人材を必要としていたから、教皇もヴィタウタスには寛容であったのかも知れない。
    (*8)ヴォリニア(Volhynia)とは、現在のウクライナ西部のヴォルイーニ州とリウネ州を中心とした地域の歴史的地名であるが、ルーツク(Lutsk)はその中心都市のひとつで、リヴィウ(L’viv)の北東約130kmに位置している。ここにある城はゲディミナス大公の息子のひとりリュバルタス(Liubartas:「余談68:ヴォリニアとガリチアをめぐる争い」参照)が1340年代に築いた堅固な要塞で、その後、ヴィタウタスによって補強され、16世紀から17世紀にも増改築されている。現在は「ルーツク城」(Lutsk Castle)とか「ルバルトの城」(Lubart’s Castle)と呼ばれ、ルーツクを象徴する歴史遺産になっている。
    (*9)この大規模な国際会議は「ルーツク会議」(the Congress of Lutsk)として知られているが、この盛大な国際会議の主議題がヴィタウタスの戴冠問題であったことは、当時、ヴィタウタスが如何に注目された重要人物であったかを物語っている。彼がリトアニア王になれば、ポーランド王ヨガイラとともに、ゲディミナス一族が支配する2つの大国が東欧に出現することになるからだ。
    (2022年1月 記)
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