榛名山への散歩/齋藤嘉博@クラス1955
記>級会消息 (2021年度, class1955, 消息)
二連のキャビン、300mほど上がるロープウエイで山頂駅から見ると、雲一つない青空の下、東に筑波山、西に浅間山。眼の下には榛名山の側火山である天目山、氷室山の姿と関東平野が広がって。バカと鶏は高いところが好きと教えられていましたが、やはり見晴らしのいい高さは気分のいいこと。ここからさらに坂道を上がって1,391mの山頂にある榛名富士神社にお参り。数人の若い人たちが社殿で手を合わせていました。 |
高尾山の例にならって下りはゆうすげ温泉への山道を歩いて下ろうと思っていたのですが、入口に「この道は風致保安林で十分な整備が出来ていないので歩かないで」との警告書。仕方なく再びロープウエイで湖畔に降り立ちました。初夏には高橋兄に喜んで頂けそうな黄色いユウスゲ、紫のホタルブクロがあたりを彩り、冬には氷結した湖面に穴をあけてのワカサギ釣りが有名なこの湖ですが今の季節は冷たい風のなかに紅葉と黄葉が真っ盛り。船宿に人もなく岸につながれたスワンボートもさびしそう。遊覧船も動いていないようでした。
帰途榛名神社にお参りしました。祭神は火と土の神様。赤い大鳥居をくぐって社への入り口、隋神門に「本堂はここから15分」とありました。杉木立の中、神橋をわたり眼の下を流れる渓谷と滝を眺めながら坂道と石段を上がること十分あまり。神門をくぐったところであと100段ほどの石段を見上げてこれはちょっとネと辟易。残念ながらそこで遥拝をして、傍らの社務所でお守りを頂き下山しました。トシですネエ。
2021年11月1日 記>級会消息
相変わらずの健脚ぶりを発揮されていらっしゃるようで、唯々、感服、脱帽です。
秋の美しい榛名湖の写真を堪能させて頂きました。僕も、だいぶ前、あそこに行きましたが、その時も、観光客の姿はまばらで、ちょっと寂しい湖畔でした。
榛名湖は、戦前、高峰三枝子がうたっていた「湖畔の宿」のモデルになった湖だそうで、あそこに記念碑みたいなものがあったような気がします。そして、自動的に、彼女が歌っている「湖畔の宿」が流れる仕掛けになっていました。多分、あそこの宿の人が、戦後、観光客誘致を狙って作ったのでしょう。
コメント by 武田充司 — 2021年11月1日 @ 21:31
「山の寂しい湖に┉」三枝子の哀調、よかったですネエ。私の耳にも残っています。湖畔に“湖畔の宿記念公園”があって今も歌碑があります。
ブログ投稿メールへの返信で高橋編集長が榛名湖の東麓、渋川にお住まいだったことを知りました。そのあたりは伊香保など温泉の巣。昔は補装のない道をバスに乗ってこの辺りの小さい温泉を訪ねたものでした。
コメント by サイトウ — 2021年11月3日 @ 09:06
僕は、中学は旧制川崎中学へ入学し、川崎が4月15日に空襲に遭い学校が使えなくなり4月下旬に旧制渋川中学へ転校し、渋川と高崎の中間の駒寄村から汽車通学したのです。1年の8月に太平洋戦争が終了したのですが、中学3年まで駒寄村に住んでいました。この間榛名湖へ行った記憶はあるのですが、詳しいことは総て忘れています。
さいとう様のこの記事で15000歩も歩かれたことを知り、高齢なのに素晴らしいことだと感銘しています。
コメント by 高橋郁雄 — 2021年11月3日 @ 17:43
それで、どうして榛名湖が「湖畔の宿」の湖のモデルなのかが気になって、wikipediaで調べてみましたら、この詩をつくった佐藤惣之助の二度目の奥さん(後妻)が萩原朔太郎の妹だったということを知りました。朔太郎は前橋の人ですから、これでほぼ納得しました。
しかし、もうひとつ気になっているのが、あの湖畔にそびえる山の形で、鹿児島の開聞岳もあんな形をしていますが、あれは火山活動の結果でしょうが、僕は、あれを見ると、子供の時に大好きだった、上野の「永藤の甘食」を思い出します。パンよりも硬くて、ビスケットほどではない、あの食感と甘さが大好きでした。どうも、話がとんでもない方向に飛んでしまい、失礼しました。
脱線ついでに、佐藤惣之助は現在の川崎市の出身ですから、高橋さんと同郷です。
コメント by 武田充司 — 2021年11月3日 @ 21:21
クラス会も開くことが出来ない折に思わぬ楽しい会話を頂きありがとうございました。
コメント by サイトウ — 2021年11月4日 @ 20:31