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  • リトアニア史余談117:ゴルプ戦争/武田充司@クラス1955

     1414年11月に始まり3年半近く続いた「コンスタンツ公会議」(*1)も1418年4月22日ようやく終わったが、この公会議においても「トルンの講和」(*2)に対するポーランドとリトアニアの不満は解消されず、彼らとドイツ騎士団との対立は続いた。

    $00A0 $00A0公会議が終った翌年(1419年)の春、教皇マルティヌス5世はこの対立を調停するべくミラノ大司教カプラ(*3)を特使として送り出した。リトアニア・ポーランド連合とドイツ騎士団の代表はカプラの仲介で、ドイツ騎士団の拠点トルンに近いポーランドの都市グニェフコヴォ(*4)において新たな交渉に臨んだ。しかし、この調停も不調に終わった。
    $00A0 $00A0すると、その年の夏、リトアニア・ポーランド連合軍がドイツ騎士団領の国境付近に結集し、軍事的緊張が高まった。この緊迫し状況を打開しようと、今度は、神聖ローマ皇帝ジギスムントが調停に乗り出した。年が明けて1420年の1月6日、皇帝はポーランドのヴロツワフ(*5)において、1411年に結ばれた「トルンの講和」(*2)は有効であり、適正なものであるとの裁定を下した(*6)。リトアニア大公ヴィタウタスは、この裁定を全く受け入れ難い不当なものだとして憤激したが、従兄弟のポーランド王ヨガイラは一応この裁定をうけ入れる態度を示しつつ、教皇マルティヌス5世に裁定の無効宣言を発出するよう請願した。そこで、教皇はこの裁定に補足説明を付けて折衷案をつくり、これによってリトアニア・ポーランド連合とドイツ騎士団を和解させようとしたが、かえって両者の反発を招いた。
    $00A0 $00A0ドイツ騎士団総長ミハエル・キュヒマイスターはマリエンブルクの城壁の強化など戦争の準備を急がせたが、財政難と増税による内部の不満から、1422年3月、辞任を余儀なくされ、パウル・フォン・ルスドルフが新総長に選出されるという事態になった。一方、この年の5月、ボヘミアではジギスムント・コリブトがプラハに入城してウトラキストたちからボヘミアの統治者として認められた(*7)。この状況を憂慮した教皇マルティヌス5世はボヘミアのフス派に対して断固たる処置をとるよう命じた。これをうけて、同年7月、皇帝ジギスムントはドイツ騎士団の協力を得て、フス派殲滅の戦争準備に取り掛かった。
    $00A0 $00A0ところが、これを知ったヴィタウタスとヨガイラは、プラハに居るジギスムント・コリプトを守るためと称して電撃的先制攻撃に打って出た。ドイツ騎士団領の南東部に侵攻したリトアニア・ポーランド連合軍は、迅速に移動しながら瞬く間にドルヴェンツァ川下流の要衝ゴルプを占領した(*8)。ドイツ騎士団軍の混乱した戦いぶりに失望した騎士団総長パウル・フォン・ルスドルフは、同年9月17日、休戦に同意し、戦いは僅か2か月で終った(*9)。戦いに完勝したリトアニアとポーランドは、ドイツ騎士団を新たな講和会議の席に就かせ、「トルンの講和」の修正を迫る機会をつかんだ(*10)。
    〔蛇足〕
    (*1)「余談114:コンスタンツ公会議における論争」参照。
    (*2)「余談111:トルンの講和」参照。
    (*3)Bartolomeo Capra:ミラノ大司教在位1414年~1433年。
    (*4)グニェフコヴォ(Gniewkowo)はヴィスワ河畔のドイツ騎士団の拠点トルン(Toru$0144)の南西約20kmに位置するポーランドの歴史的都市である。
    (*5)ヴロツワフ(Wroc$0142aw)は現在のポーランド西部、シロンスク(シレジア)地方の歴史的中心都市である。
    (*6)神聖ローマ皇帝にしてハンガリー王であるジギスムントがこのようにドイツ騎士団に有利な裁定を下した背景には、この前年(1419年)の夏、彼の異母兄ヴェンツェル(ボヘミア王ヴァーツラフ4世)が急死し、彼がボヘミア王位を継ごうとしたところを、フス派の反乱で阻止されたことから(「余談115:フス戦争とヴィタウタス大公」参照)、彼はドイツ騎士団を味方に引き入れて、ボヘミアのフス派を掃討しようとしていた、という事情がある。
    (*7)ジギスムント・コリブトに関連したこの件は「余談116:フス戦争とジギスムント・コリブト」参照。
    (*8)リトアニア・ポーランド連合軍は、先ず、ドイツ騎士団領南東部の要衝オステローデ(Osterode:現在のオストルダ〔Ostr$00F3da〕)に向かった。これを知ったドイツ騎士団はオステローデを捨てて、オステローデの南西約27kmに位置するレバウ(L$00F6bau:現在のルバヴァ〔Lubawa〕)に撤退した。これに対して、ヨガイラはレバウに向かわず、北西に進路をとってドイツ騎士団の首都マリエンブルク(Marienburg:現在のマルボルク〔Malbork〕)に向かうように見せかけた。そして、途中から進路を変え、マリエンブルクの南々東約34kmに位置するリーゼンブルク(Riesenburg:現在のプラブティ〔Prabuty〕)を占領し、周辺の村落を襲って破壊した。その後、連合軍は南下してドイツ騎士団入植初期からの土地クルム(Culm:現在のヘウムノ〔Che$0142mno〕)地方に侵攻し、ポーランドとドイツ騎士団領の国境をなすドルヴェンツァ川下流右岸(北岸)のドイツ騎士団の拠点ゴルプ(Gollub:現在のゴルプ・ドブジン〔Golub-Dobrzyn〕)を占領した。この事実から、この戦争は「ゴルプ戦争」と呼ばれている。リトアニア・ポーランド連合軍は、それまでの経験から、巨大な要塞と化しているドイツ騎士団の首都マリエンブルクを攻略することは無理と判断し、当初からドイツ騎士団領を広く転戦して各地を荒廃させ、マリエンブルクを孤立させる作戦をとったようだが、これが功を奏したのか、ドイツ騎士団軍は各地で混乱し、士気が低下したと言われている。
    (*9)このときのドイツ騎士団軍の混乱ぶりを物語る例として、エルビング(Elbing:現在のエルブロンク〔Elbi$0105g〕)を守るドイツ騎士団の司令官は、この年の8月6日、「物資が底を突き補給もないので、兵士は命令に従わず脱走している」と報告している。また、シュヴェツ(Schwetz:現在のシフィエチェ〔$015Awiecie〕)からは、「ひとりの傭兵も居らず、百人ほどの武器を持たない飢えた農民兵が集まっているだけだ」と報告されていた。
    (*10)1422年9月17日の休戦から僅か10日後の9月27日には「メウノの平和条約」が結ばれたが、ここに至って、ドイツ騎士団はついに譲歩を余儀なくされ、リトアニアとポーランドは、ようやく、部分的にではあったが、ドイツ騎士団に対して優位に立っことができた。
    (2021年10月 記)
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