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  • 半世紀前の記録から:チューリッヒ1/小林凱@クラス1955

      二年ほど前にアフリカを旅した記録を、今回と同様な趣旨でレポートにして投稿したことがあります。
      この時は僅かな記録の行間を薄れた記憶を絞り出して埋める作業にエネルギーを消耗したと思いましたが、今年(2021)に入って東日本大震災に関連したブログを書いたら案外記憶が残って居ました。そこで余り固い事を考えずに、更に前の話になりますがどこまで書けるか試そうと思いました。

      題材については矢張り外地での話が楽しく、出来れば皆さんにも繋がりの有る所がそれぞれの記憶を辿って頂けるかと思います。そこで半世紀前を思い出して見たのですが、その頃良く行って居た所に西独のデユッセルドルフ(Dusseldorf)とスイスのチューリッヒ(Zurich)がありました。デユッセルドルフは最も多く行った所ですが、これは当時の東西に分割されたドイツの西側のビジネス拠点が集結していた事情から、出張時の行き先となって居たものですが、今はすっかり変わって居る事でしょう。一方二番目のチューリッヒは、このブログでも多くの級友が、目的地だけでなく経由地としても訪れている事が判りました。斎藤さんの路面電車のお話でもチューリッヒが登場していたのではと思います。そこで今回は此処をを訪れた思い出を書いて見ることにしました。
      半世紀前のチューリッヒの町を紹介します(今も基本的なところは余り変わって居ないだろうと勝手に想像しています)。全景の写真ですが、これはホテルで貰った絵葉書です(Fig.1)。当時のチューリッヒのホテルでは泊り客にポケットサイズの案内に部屋番号を記載して渡していました。 Fig1.JPG
    Fig.1
      そこには市内地図に宿の位置と、主要機関の連絡先や店の広告が記載され、これらの部分は各ホテルに共通でした。それと絵葉書がフロントにありました。宿泊客には家族や友人にこの町からの便りを出しなさいという事でしょう。
      1967年3月、初めてこの街を訪れた時の印象が鮮やかです。空港からのリムジンバスで中央駅(HauptBahnHof-HBF)に着くと、其処からほぼ真っすぐにチューリッヒ湖に向けて伸びる駅前大通り(Bahnhof Strasse)が素晴らしいと思いました。当時の街並みを地図と大通りの写真でご覧に入れます。(Fig.2,3)
      諸兄も滞在されたホテルの位置などチェックされると良いかと思います。実を申せば私は此処に出て来る範囲しかこの町を知りません。
    Fig2.JPG
    Fig.2
    Fig3.JPG
    Fig.3
      私が此処を訪れたのは1967年から69年の間で、残念ながら全て仕事での話です。多くの場合日本からは一人で出て、現地で欧州に駐在している方と合流して仕事をして、済むと現地の方はデユッセルドルフなどの根城へ帰るのを、HBFからの空港リムジンを見送って宿に行きました。
      当時の記録ですが67年3月中旬に行き、4月上旬にロンドン経由ニューヨークに向かっています。この時の宿が地図で国立劇場(Stadtteater)の近くにあるHotel Plaza(Map No.46-Goethe Str.)です。
      この辺は静かな区域で、劇場に行く人たちの宿と書いてありましたが、私はそうした華やかな人たちは見ていません。恐らく出歩く時間帯の違いでしょう。一人で居る時に昼間は良くバーンホフシュトラッセへ行きました。この通りには金融機関だけでなく市民が楽しむ色んなお店もありました。(Fig.4) Fig4.JPG
    Fig.4
      なおこの時の週末に良い具合に都合がついてユングフラウに登ったので、その時の様子をこのブログに投稿しています。
      次は1968年3月、先ずジュネーブへ入り、あと鉄道でローザンヌ、ビエール(Biel)を経て夕刻チューリッヒに着きました。この時の宿はCity Hotel(Map No.15-Lowen Str.)、地図では駅の右下にあり駅から割合近い処です。
      その次は1969年1月でこの時の宿はButterfly Hotel,( Map.No.12- Kreuz Str.)、地図では67年の宿の少し右です。
    同じく69年の4月にも行って居ますが、この時は朝早くチューリッヒに着いて鉄道でアーラウ(Aarau)という町に行き、夕刻チューリッヒに帰ってきてその日の夜の便でデユッセルドルフへ向かいました。。駅から直ぐリムジンで空港へ向かいましたから滞在と言える時間はありません。(Fig.5) Fig5.JPG
    Fig.5
      この町はドイツ語圏でしたが、ほとんどの場所で英語が通じたので不便はありませんでした。なおこのブログではドイツ語のウムラート(Umlaut)マークは省いて居る点ご容赦下さい。
      通貨はスイスフラン(SFr.)で、当時の仏フランが70円位でスイスの方が強含みだった様に思うのですが、記録していません。
      食事についての記憶が少ないのは、余り良いものを食べていなかった所為でしょう。一つ覚えているのは干し肉の料理で、塩味の干し肉を薄くスライスして綺麗にカールしたものをお皿に並べて出され、各自が取ってバターを塗って食べるもので、Bundnelfreischと言った様に思いますが淡い記憶のみです。これはビールとの相性が良かったが、数人で行かないと注文しにくい料理でした。バーンホフシュトラッセで駅から湖の方を向いて右側にLowen Brau(ライオンビール)のサインの出ている店があってこの料理が出されていました。なおこのビールはピルゼン風の美味しい味でした。
      原稿を書いた後からですが、今回は何か古いガイドブックを拡げた様な話になって済みません。次回はもう少し角度を変えた話も入れてレポートしたいと思います。
    1件のコメント »
    1. ある年、サンモリッツからリヒテンシュタイン、ザンクトガレンと車を走らせてチューリッヒの街に入り、ホテルへと思いましたら道は一方通行の標識ばかり。それをたどるといつもバーンホフシュトラッセにでるのです。「またここかア!」と嘆いたのを覚えています。これも懐かしい思い出。

      コメント by サイトウ — 2021年7月3日 @ 08:54

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