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  • リトアニア史余談109:マリエンブルクの攻防/武田充司@クラス1955

     1410年7月17日、「ジャルギリスの戦い」に勝利して中1日の休養をとったポーランド・リトアニア連合軍は、野営地を発ってドイツ騎士団の本拠地マリエンブルクに向って進撃を開始した(*1)。

     しかし、途中でドイツ騎士団の3つの城を攻略しながらの進撃とはいえ、彼らの足取りは重く、目的地に着いたのは7月26日であった(*2)。そのとき既にシフィエチェから無傷の兵三千を率いて引き揚げてきたハインリヒ・フォン・プラウエン(*3)が、ドイツ騎士団敗北の報に接して意気阻喪していた城内の兵を励まして守備を固めていた。しかも、敵の包囲に備えて、マリエンブルクの城壁の外にあるものは全て破壊し焼き払ってあったから、連合軍は何ひとつ残っていない焼け野原に陣を敷き、野営することになった。
     マリエンブルク(*4)はヴィスワ川の支流ノガト川の河口から35km余り上流に築かれた巨大な複合型の要塞で、ノガト川を利用してバルト海から船で出入りすることができた。下の城、中の城、上の城の3区画に分れた下の城には、穀物倉庫や厩のほかに武器製造工場まであった。中の城は居住区で騎士団総長の宮殿と大食堂のほかに病院もあり、多数の外来の十字軍騎士などを宿泊させる設備も整っていた。上の城は壮大な城郭で、大きな中庭と高い見張りの塔をもった方形の建物で、その周囲には城壁がめぐらされていた。中の城と上の城はノガト川から引いた水を湛えた堀で囲まれ、さらに、中の城と上の城の間は堀で隔てられ、跳ね橋を渡らなければ往来できないようになっていた。そして、これらの3つの城全体が高さ8m、厚さ3mほどの堅牢な煉瓦造りの城壁で囲まれていた(*5)。
     このように、マリエンブルクは難攻不落の巨大な要塞であったが、周囲はポーランドとリトアニアの連合軍によって完全に包囲され、陸の孤島と化していたから、とても長期の包囲には耐えられないと思われた。しかし、楽観的になって監視が甘くなっていた連合軍の隙をついて、城内からは西欧諸国に支援を求める多くの密使が送り出されていた(*6)。
     ハンガリー王ジギスムントは、これに応えて、援軍到着まで降伏しないよう督励していた(*7)。リヴォニア騎士団軍も北方から海路やってきてケーニヒスベルクまで来ていた(*8)。
     予想外の展開に苛立つ連合軍の足元を見透かすように、ハインリヒ・フォン・プラウエンは和平交渉をもちかけてヴィタウタスを城に招き交渉をはじめた(*9)。一方、ハンガリー王が動くという噂に動揺したポーランドの貴族たちは、国王ヨガイラに撤退を迫った(*10)。ところが、その頃、リトアニア陣営に赤痢が流行りだした。事態の悪化を知ったヴィタウタスは、9月18日、ついに撤退を決断した。ポーランド軍もその翌日撤退を開始し、ほぼ2か月に及んだマリエンブルクの包囲は終った。
    〔蛇足〕
    (*1)「余談107:ジャルギリスの戦い」および「余談108:戦いのあと」参照。このときの連合軍の総勢は2万6千から2万7千といわれ、その内の1万5千がポーランド軍で、残りがリトアニア軍であった。
    (*2)途中、ホーエンシュタイン、オステローデ、クリストブルクの3つの城を襲撃したが、騎士団軍の敗北を知っていたこれらの城の守備隊は簡単に降伏したという。ホーエンシュタイン(Hohenstein)は現在のオルシュテネク(Olsztynek)で、ポーランド北東部の都市オルシュティン(Olsztyn)の南西約20kmに位置し、「ジャルギリスの戦い」の戦場からは北東に約15km離れている。従って、連合軍は寄り道をしてこの城を破壊したのだ。オステローデ(Osterode)については「余談108:戦いのあと」の蛇足(7)参照。クリストブルク(Christburg)は現在のジェズゴン(Dzierzgo$0144)で、オステローデから北西に50kmほど行ったところにあり、目的地のマリエンブルク(Marienburg:現在のマルボルク〔Malbork〕)の南東約24kmに位置している。
    (*3)シフィエチェ($015Awiecie)については「余談104:ヴィタウタスとヨガイラの陽動作戦」の蛇足(12)参照。ハインリヒ・フォン・プラウエンは「ジャルギリスの戦い」開始直前に騎士団総長の命令でシフィエチェからマリエンブルクに戻って守備を固める役割を担った(「余談105:両軍の探り合いと駆け引き」参照)。
    (*4)マリエンブルク(Marienburg)は現在のポーランド北部の都市マルボルク(Malbork)であるが、その始まりについては「余談69:ドイツ騎士団本部のマリエンブルク移転」参照。
    (*5)マリエンブルクの城は騎士団総長カール・フォン・トリール(Karl von Trier:在位1312年~1324年)によって大々的な拡張工事が実施され、ここで説明したような立派な城になった。しかし、第2次世界大戦末期の1945年春にドイツ軍がこの城に立て籠ってソ連軍と戦った時に大きな損傷をうけた。その後、修復されて1997年末にユネスコの世界遺産に登録されたが、現在でも修復作業は続けられている。
    (*6)ドイツ騎士団の敗北とマリエンブルクからの支援要請に西欧の諸侯は当初それを信じられず動転したという。
    (*7)このとき、この支援要請に応えてジギスムントの兄でボヘミア王のヴァーツラフ4世(元神聖ローマ皇帝ヴェンツェル)も傭兵を雇う資金を提供し、同時に、ボヘミアとモラヴィアから救援部隊を聖ミカエルの日(9月29日)までに派遣すると約束した。なお、ジギスムントとドイツ騎士団およびポーランドとの関係については「余談104:ヴィタウタスとヨガイラの陽動作戦」の蛇足(11)参照。
    (*8)リヴォニア騎士団がリガから海路でケーニヒスベルクに到着したのは8月末であったが、このとき、プスコフとノヴゴロドがリトアニアと謀ってリヴォニア侵攻を企てているという噂が流れ、これに驚いたリヴォニア騎士団軍は、9月8日、ヴィタウタスと10ヶ月の休戦協定を結んで撤退して行った。なお、このときのリヴォニア騎士団の立場については「余談103:開戦前夜の言論“正義の戦いについて”」参照。
    (*9)このとき、ヴィタウタスは50人の親衛隊を引き連れてマリエンブルク城内に1週間ほど滞在したと言われているが、これは、援軍到着までの時間稼ぎをしたいドイツ騎士団の巧妙な接待作戦に乗せられたのかも知れないが、事実とすれば不可解なことだ。
    (*10)彼らはハンガリー軍がポーランドに侵攻して来て領地を荒らされることを恐れただけでなく、秋の収穫時期が迫っていたので早く戦争を終わらせて領地に戻りたかったのだ。その一方で、ドイツ騎士団の支配からの解放を願うプロシャの人々、特に経済的に繁栄していたハンザ同盟都市のダンツィヒ(現在のグダンスク)などの都市裕福層は、ポーランド王ヨガイラに代表を送って、マリエンブルクの戦いの続行を訴えていた。ヨガイラももう少し頑張ればマリエンブルクは攻略できると思っていたようだ。
    (2021年2月 記)
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