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  • リトアニア史余談102:権謀術数をめぐらすドイツ騎士団/武田充司@クラス1955

     1410年1月、前年秋に結ばれた休戦協定に基づき、ボヘミアのプラハにおいてドイツ騎士団とポーランドとの和平交渉が始まったが、仲介役のボヘミア王ヴァーツラフ4世が示した調停案は一方的にドイツ騎士団の利益を擁護する不平等なものであった。

    $00A0$00A0 これは明らかにドイツ騎士団と事前に相談してつくられたものであったから、ポーランド王ヨガイラにとって到底うけ入れることができないものであった(*1)。
    $00A0$00A0 ヨガイラの拒否によって面目を潰されたヴァーツラフ4世は、この案を受諾しなければ自分の名誉にかけてポーランドを攻撃すると言って憚らなかったが、そんな威嚇に屈するようなヨガイラではなかった。彼はポーランドの代表団を1か月間プラハに残してさっさとポーランドに帰って行ったが、あとに残った代表団にボヘミア王の調停案が如何に不平等なものであるかを執拗に訴えさせた。これを知って激高したヴァーツラフ4世は自ら軍を率いてポーランドに攻め込むと言い出したが、そのとき、ポーランドの代表団は黙って引き揚げて行った(*2)。
    $00A0$00A0 一方、これとは別に、おなじ頃、すなわち1410年の1月、ハンガリー王ジギスムント(*3)は密かにリトアニア大公ヴィタウタスをハンガリーのケジュマロク(*4)に招き、「リトアニアがポーランドとの連合を解消すれば、リトアニアを独立の王国として認め、ヴィタウタスをリトアニア王として戴冠させてもよい」という話をもちかけていた(*5)。
    $00A0$00A0 このとき、ジギスムントはドイツ騎士団から相応の金銭的見返りを受け取る条件で(*6)、この年の6月24日に休戦協定が失効したならば(*7)、直ちに南からポーランドに侵攻するという密約を交わしていた。これはリトアニアをポーランドから引き離したあと、ハンガリーとドイツ騎士団が南と北から一気にポーランドに侵攻しようという申し合わせだった。しかし、ヴィタウタスはそのような謀略を知ってか知らずか、彼はジギスムントの甘い誘惑の罠にはかからず、その提案を断って宿に引き揚げた。ところが、その夜、ケジュマロク市街は大火に見舞われ、ヴィタウタス一行は辛うじて難を免れて帰国した(*8)。
    $00A0$00A0 しかし、この年の5月、ボヘミア王ヴァーツラフ4世は、1月の調停失敗にもかかわらず、再びポーランド王ヨガイラにドイツ騎士団との調停をもちかけ、ブレスラウ(*9)まで出かけて来いと言ってきた。この居丈高な出頭命令のような要請を無視したヨガイラは、ブレスラウには行かず、何を思ったか、これ見よがしに大掛かりな狩りを催した。これは、いよいよドイツ騎士団との本格的な戦争が避けられないと覚悟したヨガイラが、戦争準備の一環として、先ず、食肉を確保するため実施したものだった(*10)。
    〔蛇足〕
    (*1)ヴァーツラフ4世が仲介したこの和平交渉は「余談101:ドイツ騎士団とポーランドの短い戦い」で述べた休戦協定をうけて実施されたものである。調停役のヴァーツワフ4世については同余談の蛇足(9)参照。なお、このときの調停案の骨子は「互いの領土の境界は現状を維持すること」および、「将来のポーランド国王は西欧キリスト教世界の国から選出すること」であったという。
    (*2)このときのヴァーツラフ4世とヨガイラの駆け引きは2人の性格の一面を描写しているようで、真偽のほどは別として、興味深いものがある。ヴァーツラフ4世、すなわち、ルクセンブルク家のヴェンツェルは、博学で教養ある人物だったが、統治者としての資質は凡庸で、酒癖が悪く、物事に無頓着で、気まぐれで短気な変人であったらしい。実際、彼は父の敷いた路線に乗って神聖ローマ皇帝となったが、戴冠することなくその地位を追われ、ボヘミア王としても人望がなく、ボヘミア王国は統治不全に陥っていた。一方、ヨガイラは粘り強く執念深い性格だったようで、ヴェンツェルの性格を呑み込んで対応していたように思える。
    (*3)ジギスムントについては「余談101:ドイツ騎士団とポーランドの短い戦い」の蛇足(6)参照。
    (*4)ケジュマロク(Ke$017Emarok)はクラクフの南々東約100kmに位置する現在のスロヴァキアの都市ポプラド(Poprad)の北東約12kmにある小都市であるが、当時はハンガリーの都市であった。
    (*5)当時は、教皇の認めた国王として戴冠した「王」が君臨する王国に対して、公(あるいは大公)の統治する公国(あるいは大公国)は格下で、西欧キリスト教世界では一人前の国家とはみなされなかったから、ヴィタウタスもローマ教皇の認める戴冠式を挙げて「王」となって、リトアニアをポーランド王国と対等な王国にすることが悲願であった。ジギスムントはそこにつけ入ってヨガイラとヴィタウタスの同盟関係を壊そうとした。
    (*6)このときドイツ騎士団はジギスムントに30万ダカット(4万グルデンという記述もあるが)を見返りの謝礼金として送る約束をしていた。
    (*7)休戦協定が失効する1410年6月24日については「余談101:ドイツ騎士団とポーランドの短い戦い」参照。
    (*8)この火災はヴィタウタス一行が宿舎にもどって休んでいる深夜に発生し、市街地の大半を焼き尽くす大火となった。これをヴィタウタス一行の仕業に違いないと思った町の人たちが暴徒と化してヴィタウタス一行に襲いかかったため、ヴィタウタスも危うく殺害されるところだったという。さらに、この災難を逃れてポーランドへ戻る途中で、何の間違えか、ヴィタウタス一行は逮捕さそうになるという災難のおまけがついた。
    (*9)ブレスラウ(Breslau)は現在のポーランド南西部シロンスク地方(シレジア地方)の中心都市ヴロツワフ(Wroc$0142aw)のドイツ語名で、この地域は伝統的にピアスト朝一族の土地だったが、当時はボヘミア王国の支配下にあった。
    (*10)戦争の準備を始めたヨガイラは、この他にも、要所に臨時の穀物貯蔵庫を建設し、軍隊の迅速な移動に必要な道路と橋の補修や整備を実施した。特に、ヴィスワ河畔の都市プオツク(P$0142ock)には戦略的な供給基地を築き、ヴィスワ川に浮橋を架け、ヴィスワ川を下って北方のドイツ騎士団領方面への兵員や物資の輸送を円滑に実施できるようにした。
    (番外)この余談シリーズでは、一貫して「ポーランド王ヨガイラ」としているが、ヨガイラ(Jogaila)はリトアニア人としての本名で、この方が簡単で分かり易いから便宜的にこれを使っているが、ポーランド王としては「ヴワディスワフ2世ヤギェウォ」(W$0142adys$0142aw Ⅱ Jagie$0142$0142o)である。「余談85:ポーランドに婿入りしたヨガイラ」参照。
    (2020年7月 記)
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