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  • リトアニア史余談95:ヴィルニュス・ラドム協定/武田充司@クラス1955

     ポーランド王ヨガイラの后ヤドヴィガは、1399年6月22日、長女エルジビエタ・ボニファチャを出産したが、不幸にも、その子は生れて3日後に亡くなった。そして、ヤドヴィガ自身もそれから1か月も経たない7月17日に亡くなった。

     ヨガイラはポーランド王位継承者であるヤドヴィガの婿としてポーランド王室に迎えられ、ポーランド王となったのだから、この不幸の連鎖はポーランド王としてのヨガイラの地位を不安定なものにした(*1)。一方、リトアニア大公ヴィタウタスは、それから間もない8月12日、クラクフから東へ1000kmも離れたヴォルスクラ河畔の戦いでタタール軍に大敗して面目を失い、政治的危機に直面した(*2)。
     戦場から帰還したヴィタウタスは直ちにクラクフに赴きヨガイラと会った。この時の2人の対面がどのようなものであったのか知る由もないが、不運にも苦しい立場に追い込まれた2人が、以前のように不信感を募らせて争うのではなく、互いにこの場は何とか取り繕って、今後のことを考えようとしたのではなかろうか。
     翌年(1400年)の12月、2人はガルディナス(*3)に会し、過去に2人の間で合意されていた事項を再確認したが、これが「ヴィルニュス・ラドム協定」である(*4)。この協定によって確認された要点は、ヴィタウタスをリトアニア大公としてリトアニアの統治を委ねるが、ヨガイラはヴィタウタスを監督する諸権利を保持する「最高君主」であり、ヴィタウタス没後は、ポーランド王ヨガイラ、あるいは、ヨガイラの合法的な後継者によってリトアニアは統治されるものとする。また、リトアニアとポーランドの貴族は互いに相談することなくポ-ランド王を選出しない、というものであった。
     1401年8月、リャザニに亡命していたスモレンスク公ユーリイ(*5)が、威信失墜のヴィタウタスの隙を突いてスモレンスクを奪還し、ヴィタウタスに臣従していたブリャンスクの貴族たちを処刑してブリャンスクも支配下においた。ヴィタウタスは急遽スモレンスクを包囲したが勝利することができず、ユーリイと休戦して撤退した。しかし、1403年、再度、スモレンスクを包囲したヴィタウタスは、その翌年、スモレンスクを奪還した(*6)。スモレンスクはこの時から1世紀以上にわたってリトアニアの支配下に置かれた(*7)。
     一方、后ヤドヴィガを亡くしたヨガイラは、1402年1月、スロヴェニアのツェリェ伯ヘルマン2世(*8)の娘(養女)アンナを後妻に迎えた。アンナはポーランドのピアスト朝の中でも大王と呼ばれたカジミエシ3世の孫娘であったから(*9)、ヨガイラのポーランド王としての地位は強化された。アンナはそれから6年後の1408年に女児を出産し、世継ぎ問題にも一条の光明をもたらした。
    〔蛇足〕
    (*1)ポーランドの貴族たちにとってヨガイラはリトアニアをポーランドに併合するための要であったから、そのことに執着していた彼らはそう簡単にはヨガイラを廃して新たなポーランド王を選出することなどできなかっただろうが、それでもヤドヴィガ没後のヨガイラの立場は微妙なものであったはずだ。ヤドヴィガについては「余談84:クレヴァの決議」参照。
    (*2)ヨガイラの権力と智謀に対抗できるヴィタスタスの力の源泉は彼の軍事的才能であったから、ヴォルスクラ川の敗北は彼を窮地に追い込んだ。「余談94:ヴォルスクラ川の戦い」参照。
    (*3)ガルディナス(Gardinas)はヴィルニュスの南西約150kmに位置し、現在のベラルーシの都市フロドナ(Hrodna)で、以前はグロドノ(Grodno)と呼ばれていた。
    (*4)「ヴィルニュス・ラドム協定」については「余談91:ヴィタウタス大公時代のはじまり」の蛇足(6)参照。
    (*5)ユーリイは最後のスモレンスク公となった人であるが、1395年にヴィタウタスによってスモレンスクを追われ、岳父であるリャザニ公オレグを頼って亡命していた。
    (*6)このとき、ユーリイはモスクワのヴァシリイ1世に支援を要請したが、当時のモスクワ公国の力は未だ十分でなかったことと、ヴァシリイ1世にとってヴィタウタスは岳父であったことなどから(ヴァシリイ1世の后はヴィタウタスのひとり娘ソフィアである。「余談89:ヴィタウタスの娘ソフィアの嫁入り」参照)、ヴァシリイ1世はユーリイを助けなかった。
    (*7)スモレンスクがモスクワ公国の支配下に入るのはヴァシリイ3世(在位1505年~1533年)時代の1514年である。それまでの100年以上の間、スモレンスクはリトアニアの重要拠点都市であった。
    (*8)1396年のニコポリス十字軍がバヤズィト1世率いるオスマン軍に敗れたとき、ツェリェ伯ヘルマン2世は獅子奮迅の活躍で撤退するハンガリー王ジギスムント(のちの神聖ローマ皇帝)を助けた。その功績によってヘルマン2世はジギスムントの信任を得た。ジギスムントの后マリアはヨガイラの后ヤドヴィガの姉であるが(「余談84:クレヴァの決議」参照)、早世したので、ジギスムントはヘルマン2世の娘バルバラを後妻に迎えた。バルバラはヨガイラの後妻アンナとは姉妹の関係だが、アンナはヘルマン2世の養女なので実の姉妹ではない。ツェリェ(Celje)は現在のスロヴェニア北東部の都市である。当時、スロヴェニアやクロアチアはハンガリー領だった。
    (*9)ヨガイラの後妻となったアンナは、ピアスト朝最後のポーランド王で世継ぎの息子に恵まれなかったカジミエシ3世(大王:在位1333年~1370年)の娘アンナがツェリェのウイリアムに嫁いで産んだ娘(母と同名のアンナ)であるが、彼女が幼いとき父ウイリアムが亡くなったため、父の従兄弟であるツェリェ伯ヘルマン2世が彼女を引き取り、養女とした。そこでバルバラと姉妹の関係になった。なお、1408年にヨガイラとアンナとの間に生れた娘は成人したが父ヨガイラより早く1431年に亡くなった。
    (番外)ヨガイラ(Jogaila)はリトアニア人である彼の名であるから、ここではすべてヨガイラとしたが、ポーランド王としてはヴワディスワフ2世(W$0142$0142adys$0142aw Ⅱ)、あるいは、ヴワディスワフ2世ヤギェウォ(W$0142$0142adys$0142aw Ⅱ Jagie$0142$0142o)である。「余談85:ポーランドに婿入りしたヨガイラ」の蛇足(6)参照。
    (2019年12月 記)
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