半世紀前の記録から:南アフリカ(2)・大陸/小林凱@クラス1955
記>級会消息 (2019年度, class1955, 消息)
1966年11月、ケニアのナイロビを離陸したBOACのVC10はひたすら南アフリカのヨハネスブルグ(Johannesburg)を目指して南下した。
前回の様にキリマンジェロを周る様な事は無かった。もうこの頃になると、高山の周辺での危険な気流が話されていたから、その様な所に近づくよりアフリカ大陸を紹介するのが適当であったと思う。
かなり飛んでから機内アナウンスで当機はザンベジ(Zambezi)河を越えると知らされた。私はこの川を良く知らなかったが、窓の外に見たのは巨大な大河であった。後で思うのは、この川に作られたKariba Damによって出来たKariba湖の一部をその様に思ったのか、Zambezi河自体だったのか、どこで河を越えたのか今となっては判らない。Kariba湖は人造湖では世界最大の面積を持つと言われたから、これらの景色は私の判断基準を超えて居た様だ。その後Kariba Damの下流には、更にCabora Bassa Damが作られ其処にも巨大な人造湖が出来てこの辺の地図はすっかり変わって居る様だが、それは私が訪れていた時期の後である。
アナウンスでは併せてZambezi河の上流には、有名なビクトリアの滝がある事を紹介していた。この滝が英国の探検家リビングストン(David Livingstone)により発見されたのは、名前の由来の通りQueen Victoria時代の1855年である。私はもう少し前の様に思っていたが、実態は日本の幕末の少し前であった。しかしこの辺りの短い期間が、その後の世界地図の色分けを大きく変えた様だ。この滝には数回の南アフリカ出張中に訪れる機会は残念ながら無かった。
私はアフリカへ来る数年前に「野生の女」という映画を見た事がある。その舞台は1850年ごろの南アフリカで、丁度Zambezi河の上流が探索されていた時代にあたる。
主演はタイロン パワーとスーザン ヘイワードのハリウッド映画で、それ程のヒット作で無かったからご存知の方は少ないと思う。その中身は南アフリカへヨーロッパ人が来て、海岸寄りの植民地から大陸の奥地に向かって支配圏を広めて行く開拓物語であった。この原題は「The Untamed(不屈の人たち)」で内容的に悪い事は無かったが、なぜこれが日本封切り時に「野生の女」に変わったのか不明だ。恐らく当時のフイルム輸入業者が、こうした名前が日本人の好奇心をそそって客が入ると思ったのかと想像しています。
この映画では主人公はアイルランド出身だが、当時の開拓者の主体はオランダ人であった。ところがその後南アフリカで膨大な金やダイヤモンドの鉱山が発見されると、事情は一変する。この地を自分の領土にしようとした英国と、オランダ系移民が建てたトランスバール地方やオレンジ自由国(これらは今日の南アフリカの州名になっている)との間にボーア(Boer)戦争が起き、最終的に第二次ボ―ア戦争(1899-1902)が英軍の勝利で終わった事で、南アフリカは英連邦の一環となる。
私が訪れた半世紀前では、南アフリカは既に独立した共和国であったが、その社会にはこうした歴史を反映した要素も多く遺っていた。言葉では公用語は英語だが、同時にアフリカ―ンズと言ってオランダ語の影響を強く遺した言葉も使われていて、政府関係の書類にも前半が英語、後半に同一内容をアフリカ―ンズで記載した仕様書が付属して居るのがあった。(現在どうなっているか知りませんが)
この頃の航空機のルートはこうしたかっての歴史の上を飛んでいたが、今はすっかり変わった様です。
日本から南アフリカへは、インド洋を斜めにクロスして行く様になって時間は大幅に短縮されている。例えば羽田を16時に発つキャセイパシフィック航空便は香港へ4時間半で20時頃着、乗り換えて香港を23時過ぎに発つと、ヨハネスブルグには約13時間半の飛行で翌朝6時半過ぎに到着する。半世紀前に要した時間は当Blogで紹介しているので、比較して下されば幸いです。強いて昔を懐かしめば、かって眺められたアフリカ大陸の迫力ある景色が見れないが、これはやむを得ません。
かなり飛んでから機内アナウンスで当機はザンベジ(Zambezi)河を越えると知らされた。私はこの川を良く知らなかったが、窓の外に見たのは巨大な大河であった。後で思うのは、この川に作られたKariba Damによって出来たKariba湖の一部をその様に思ったのか、Zambezi河自体だったのか、どこで河を越えたのか今となっては判らない。Kariba湖は人造湖では世界最大の面積を持つと言われたから、これらの景色は私の判断基準を超えて居た様だ。その後Kariba Damの下流には、更にCabora Bassa Damが作られ其処にも巨大な人造湖が出来てこの辺の地図はすっかり変わって居る様だが、それは私が訪れていた時期の後である。
アナウンスでは併せてZambezi河の上流には、有名なビクトリアの滝がある事を紹介していた。この滝が英国の探検家リビングストン(David Livingstone)により発見されたのは、名前の由来の通りQueen Victoria時代の1855年である。私はもう少し前の様に思っていたが、実態は日本の幕末の少し前であった。しかしこの辺りの短い期間が、その後の世界地図の色分けを大きく変えた様だ。この滝には数回の南アフリカ出張中に訪れる機会は残念ながら無かった。
私はアフリカへ来る数年前に「野生の女」という映画を見た事がある。その舞台は1850年ごろの南アフリカで、丁度Zambezi河の上流が探索されていた時代にあたる。
主演はタイロン パワーとスーザン ヘイワードのハリウッド映画で、それ程のヒット作で無かったからご存知の方は少ないと思う。その中身は南アフリカへヨーロッパ人が来て、海岸寄りの植民地から大陸の奥地に向かって支配圏を広めて行く開拓物語であった。この原題は「The Untamed(不屈の人たち)」で内容的に悪い事は無かったが、なぜこれが日本封切り時に「野生の女」に変わったのか不明だ。恐らく当時のフイルム輸入業者が、こうした名前が日本人の好奇心をそそって客が入ると思ったのかと想像しています。
この映画では主人公はアイルランド出身だが、当時の開拓者の主体はオランダ人であった。ところがその後南アフリカで膨大な金やダイヤモンドの鉱山が発見されると、事情は一変する。この地を自分の領土にしようとした英国と、オランダ系移民が建てたトランスバール地方やオレンジ自由国(これらは今日の南アフリカの州名になっている)との間にボーア(Boer)戦争が起き、最終的に第二次ボ―ア戦争(1899-1902)が英軍の勝利で終わった事で、南アフリカは英連邦の一環となる。
私が訪れた半世紀前では、南アフリカは既に独立した共和国であったが、その社会にはこうした歴史を反映した要素も多く遺っていた。言葉では公用語は英語だが、同時にアフリカ―ンズと言ってオランダ語の影響を強く遺した言葉も使われていて、政府関係の書類にも前半が英語、後半に同一内容をアフリカ―ンズで記載した仕様書が付属して居るのがあった。(現在どうなっているか知りませんが)
この頃の航空機のルートはこうしたかっての歴史の上を飛んでいたが、今はすっかり変わった様です。
日本から南アフリカへは、インド洋を斜めにクロスして行く様になって時間は大幅に短縮されている。例えば羽田を16時に発つキャセイパシフィック航空便は香港へ4時間半で20時頃着、乗り換えて香港を23時過ぎに発つと、ヨハネスブルグには約13時間半の飛行で翌朝6時半過ぎに到着する。半世紀前に要した時間は当Blogで紹介しているので、比較して下されば幸いです。強いて昔を懐かしめば、かって眺められたアフリカ大陸の迫力ある景色が見れないが、これはやむを得ません。
時間を半世紀前に戻して、長い旅の終わりに搭乗機がヨハネスブルグへ向かって高度を下げて行くと、広大な高原地帯に多数の小山が現れてくる。(Fig.1) これらはかっての金鉱の跡で、掘り出した土が山になった儘積み上げられていて、それに取り囲まれる様に開けた町がヨハネスブルグであった。 | |
Fig1 |
此処での滞在は市内のホテル(Cranbrooke H)で、現地のオフイスは徒歩で行ける範囲にあった。あとはバスか車の使用で、当時(1960年代)のこの町は公園が多くクリーンで落ち着いた雰囲気であった。宿泊して居たホテルは公園の近くで、そこでは毎日花屋さんが店を開いて居た。(Fig.2)$00A0 | |
Fig2 | |
Fig1、Fig2、共にホテルの絵葉書の写真を載せました。 |
2019年8月1日 記>級会消息
貴兄の2回にわたるアフリカ紀行、とくに今回の稿はなにかぞくぞくしながら拝読しました。旅好きの小生は、ほとんど世界中を地図と「歩き方」を使って、時にビデオを見てヴァーチャルの旅をいたしましたが、さすがにアフリカまではなかなか手が届いておりません。せいぜいケニヤ付近の野生動物公園のあたりだけ。というわけでザンベジ川を下に見て二つの大きな人造湖の間を飛ぶお話しにワクワク。行けたらよかったのにナアと思いながら、お話をもっと伺いたく思っています。ヨハネスブルグの土山は昔の筑豊のボタ山を思い出しますネ。
コメント by サイトウ — 2019年8月4日 @ 19:27
古いアフリカでの話に関心持って下され感謝です。ヨハネスブルグの土山は、黄色がかった明るい茶色だった様に思います。斎藤さんのコメントに元気を得て、アフリカでの見聞をもう少しレポートして見たいと考えて居ます。
コメント by 小林 凱 — 2019年8月5日 @ 15:10