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  • リトアニア史余談88:ヴィタウタスとヘンリー4世/武田充司@クラス1955

     1390年9月、リトアニアの首都ヴィルニュスの城はヴィタウタスとドイツ騎士団の大軍によって包囲された。このとき、ヴィタウタスは家族全員を人質としてプロシャのドイツ騎士団に預け、ドイツ騎士団とともに、従兄弟のポーランド王にしてリトアニア大公ヨガイラに戦いを挑んだのだった(*1)。

    $00A0$00A0 城内にはヨガイラの弟スキルガイラに率いられたポーランドとリトアニアの混成軍が立て籠もっていた(*2)。一方、城を包囲するドイツ騎士団軍の中にはイングランやフランスからやって来た大勢の騎士たちがいた(*3)。
    $00A0$00A0 この年の4月、グロドノを失って窮地に立たされていたヴィタウタスであったが、その翌月、31人ものジェマイチヤの有力者がケーニヒスベルクを訪れ、ドイツ騎士団の監視下に置かれていたヴィタウタスに忠誠を誓ってくれた(*4)。これに励まされたヴィタウタスは、この年の夏、ドイツ騎士団の大軍とともにジェマイチヤに進軍し、先ず、ニェムナス河畔のゲオルゲンブルクを包囲したが(*5)、そのときドイツ騎士団総長が亡くなったという知らせが届いた(*6)。これでドイツ騎士団軍は戦いをやめて撤退するかに見えたが、西欧から馳せ参じた大勢の血気盛んな騎士たちは戦いをやめず、ゲオルゲンブルクの包囲を解くと、リトアニアの首都ヴィルニュス攻略に向ったのだ。
    $00A0$00A0 こうして総指揮官なき大軍団はヴィルニュスを包囲したが、堅固な守りの城に立て籠るポーランド軍は降伏しなかった(*7)。やがて秋も深まり食料弾薬も尽きてきたドイツ騎士団の混成軍は、ついにヴィルニュス城攻略を諦め、包囲をといて撤退して行った(*8)。
    $00A0$00A0 しかし、包囲期間中に彼らはヴィルニュス周辺を略奪し荒らしまわったため、首都ヴィルニュスとその周囲地域は荒廃した。このとき、トライデニスが開いたというリトアニアの古都ケルナヴェも焼き払われ廃墟と化した。そして、その後、ケルナヴェは再建されることなく、低地にあった町並みはネリス川の運ぶ泥土に埋もれて忘れ去られてしまった(*9)。
    $00A0$00A0 ところで、この時のリトアニア遠征にヴィタウタスとともに参加したイングランドの騎士の中に、のちにイングランド王ヘンリー4世となるヘレフォード公ヘンリー・ボリングブロクがいた。彼は300人の騎士を従えてプロシャのドイツ騎士団のもとにやって来てこの遠征に参加し、ヴィタウタスと知り合ったという。そして、その冬はケーニヒスベルクに滞在し、翌年(1391年)の春、ダンツィヒから船に乗って帰国した(*10)。
    $00A0$00A0 ヘンリーの父ランカスター公ジョン・オヴ・ゴートンは詩人チョ-サーと親しかったから、チョーサーはヘンリーからリトアニアにおける楽しい武勇伝を聞かされ、大いに触発されたらしい。それは、その後のチョーサーの作品の一部に反映されているという。
    〔蛇足〕
    (*1)「余談87:同君連合下のリトアニア」参照。
    (*2)このとき、スキルガイラ(Skirgaila)はリトアニア大公でもある実兄ヨガイラの代理としてリトアニアを統治していた。「余談87:同君連合下のリトアニア」参照。
    (*3)ずっと以前から、西欧各地の騎士たちが冒険旅行気分で、あるいは、騎士としての箔つけに、プロシャにやって来て、ドイツ騎士団の異教徒討伐、いわゆる「北の十字軍」に参加していた。これをドイツ語で「ライゼ」(Reise:旅)と言っていたが、これは単なる旅ではなく「軍旅」(軍事的冒険の旅)とでも言うべきもので、異教徒を人間とも思わず、「サファリ」のように、未開の地で野獣狩りでもするように、殺戮と略奪を楽しむ「蛮族狩り」であった。実際、この当時の西欧では、キリストを信じない者は人間ではなく、神の敵であるから、殺してもよいという議論が広く支持されていた。したがって、この時も、西欧から大勢の騎士たちがサファリ気分でこの戦いに参加していた。しかし、リトアニアは1387年にキリスト教国になっているので「北の十字軍」の大義も既になくなっていたのだが、一般民衆の間ではキリスト教は形式的にうけ入れられたにすぎず、伝統的信仰が生きていた。なお、ここでもうひとつ注意すべき点は、この当時のヨーロッパは百年戦争(1337年~1453年)の最中であったことだが、しかし、1375年の「ブルッフェ休戦協定」と、それに続く1389年の「レウリンゲム休戦協定」が結ばれていて、そのあと、1396年には「パリ休戦協定」が結ばれようとしていた時代で、英仏百年戦争は長い休戦期間に入っていた。その結果、暇をもて余したイングランドやフランスの騎士たちが大挙してリトアニアにやって来たのだ。中には、給料をもらえなくなった傭兵や、食い詰めた貧乏貴族の次男三男など、無頼の徒も大勢含まれていたようだ。また、これとは別に、この前年(1389年)の6月にはバルカンで「コソヴォの戦い」があり、オスマン勢力の脅威がヨーロッパにも迫っていたのだが、彼らは愚かにもリトアニアでサファリ気分の戦いに興じていたのだ。
    (*4)この話からもヴィタウタスがジェマイチヤの人々の間で如何に人気があったかがわかるが、キリスト教への改宗を頑なに拒みドイツ騎士団の支配に断固抵抗し続けていたジェマイチヤの人々が、当時、既にキリスト教徒になってドイツ騎士団に服従していたヴィタウタスに忠誠を誓ったことは、間接的に彼らがドイツ騎士団に服従したことを意味した。これは彼らがヴィタウタスの胸中を暗黙の裡に理解し、ヴィタウタスを信頼していたからであろう。一方、ジェマイチヤの支配を渇望していたドイツ騎士団は、このことから、ヴィタウタスが自分たちにとって如何に役立つ人物かを思い知らされたことだろう。
    (*5)ゲオルゲンブルクについては「余談83:カウナスのマリエンヴェルダー」参照。
    (*6)このときのドイツ騎士団総長はコンラート・ツェルナー・フォン・ローテンシュタインで、1390年8月20日に亡くなった。
    (*7)このときヴィルニュスを守っていたのはヨガイラの弟スキルガイラで、城内にはポーランド人とリトアニア人の混成軍のほかに、ルーシの地から集められた正教徒の兵もいたという。
    (*8)西欧から参加した騎士たちは冬になる前に帰国するつもりであったのだろうし、ドイツ騎士団の騎士たちは新総長選出の総会が気になっていたことなどが彼らの撤退を促したのだ。
    (*9)ケルナヴェ(Kernav$0117)については「余談56:消滅した古都ケルナヴェ」参照。
    (*10)ヘレフォード公ヘンリー・ボリングブロク(ヘンリー4世としての在位:1399年~1413年)は、このあと、1392年にも百年戦争で活躍した長弓の射手を主力とする百人余の小軍団と6人の吟遊詩人を従えてプロシャに再来したが、その時には既にヴィタウタスはドイツ騎士団と袂を分かち、ヨガイラと協力してドイツ騎士団に立ち向かっていた。しかし、ヘンリーはこの戦いには参加せず、直ぐに引き揚げていった。そして、そのあと、エルサレム巡礼の旅に出ている。
    (2019年5月 記)
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