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  • リトアニア史余談85:ポーランドに婿入りしたヨガイラ/武田充司@クラス1955

     1386年1月11日、リトアニア大公ヨガイラは、リトアニアの首都ヴィルニュスの南々西180kmほどにあるヴォルコヴィスク(*1)において、ポーランド代表団を接見した。そして、「ポーランドの貴族たちはヨガイラをポーランド王に選出することで同意した」という文書をうけとった。

    $00A0 同年2月1日、ポーランドの貴族たちはルブリン(*2)に集まって国王選挙を行い、リトアニア大公ヨガイラをポーランド王に選出した。
    $00A0 これをうけて、同年(1386年)2月12日、ヨガイラと彼の一族がこぞってポーランドの首都クラクフに到着した。それから3日後の2月15日、ヨガイラはクラクフのヴァヴェル城の大聖堂においてグニェズノ大司教ボゼンタ(*3)から洗礼をうけ、洗礼名ヴワディスワフ(*4)を名乗った。
     1386年2月18日、僅か12歳のポーランド国王ヤドヴィガ(*5)とヨガイラの結婚式が盛大に執り行われ、それから2週間後の3月4日、リトアニア大公ヨガイラはポーランド王ヴワディスワフ2世ヤギェウォとして戴冠した(*6)。こうして、ヨガイラを始祖とするポーランドのヤギェウォ朝(*7)がはじまったが、同時に、このとき、ポーランドとリトアニアが同君連合となった(*8)。これらすべては、前年(1385年)の夏、クレヴァで取り決められた「クレヴァの決議書」によるものであった(*9)。
     ところが、リトアニアとポーランドの同君連合に対して脅威を感じたドイツ騎士団は、ヨガイラとヤドヴィガの結婚を認めないオーストリア(*10)と組んで、2人の結婚の無効を訴えるキャンペーンを展開した。これが功を奏したのか、時の教皇ウルバヌス6世(*11)がヨガイラとヤドヴィガの結婚を認めなかったから、カトリックの国であるポーランドは困惑した。しかし、ボニファティウス9世(*12)になってやっと認めてもらい一件落着した。
     ポーランド王として戴冠したヨガイラは、そのあと暫くポーランドに留まって各地を巡幸した。これは、新国王としてポーランド各地の特権貴族に会って自分への忠誠を誓わせる旅であったのだろう。実際、ルドヴィク1世としてポーランド王を兼ねていたハンガリー王ラヨシュ1世はポーランドの貴族たちに譲歩して多くの特権を認めていたから(*13)、彼ら特権貴族たちは、その既得権を手放さず、自分たちに都合のよい弱い国王を望んでいた。ヨガイラがポーランド王に迎えられたのもそうした特権貴族たちの思惑と無縁ではなかった。また、マゾフシェ公シェモヴィト4世のように直前までポーランド王位を狙っていたピアスト家の末裔がいたこともヨガイラは忘れていなかった(*14)。こうして一通りのことを済ませてヨガイラがリトアニアに戻ったのは1386年も暮れようとするときであった。
    〔蛇足〕
    (*1)ヴォルコヴィスク(Volkovysk)は現在のベラルーシ領内の都市ヴァウカヴィスク(Vawkavysk)であるが、当時はポーランドとの国境に近いリトアニアの都市であった。ここは11世紀初頭から知られた古い都市で、その当時はバルト族とスラヴ族の居住境界に位置していて、砦があったという。
    (*2)ルブリン(Lublin)はワルシャワの南東約150kmに位置するポーランドの都市。
    (*3)グニェズノ(Gniezno)に大司教座が置かれたのは1000年で、それまでは、当時のポーランドの都ポズナン(Pozna$0144)の司教座が中心で、この司教座はマグデブルク大司教の管轄下にあった。したがって、1000年にグニェズノに大司教座が置かれた時にポーランドのキリスト教会はドイツ人の支配から脱して自立した。なお、ボセンタ(Bodz$0119ta z Kosowic)の大司教在位は1382年から1388年である。
    (*4)ヴワディスワフ(W$0142adys$0142aw)は、ヤドヴィガの曽祖父でポーランド再統一を成し遂げたヴワディスワフ・ウォキェテク(W$0142adys$0142aw Ⅰ $0141okietek:在位1320年~1333年)に因んだ名である。
    (*5)ヤドヴィガ(Jadwiga)については「余談84:クレヴァの決議」参照。
    (*6)ヴワディスワフ2世ヤギェウォ(W$0142adys$0142aw Ⅱ Jagie$0142$0142o)の「ヤギェウォ」は「ヨガイラ」のポーランド語表現。なお、このとき、ヨガイラはヤドヴィガの母エリザベートの養子になっている。こうしておけばヤドヴィガが先に死んでも、ヨガイラがポーランド王として留まることができるからであった。ヤドヴィガの母エリザベートはボスニア太守スチェパン2世コトロマニチの娘である。ヤドヴィガの父ハンガリー王ラヨシュ1世(ポーランド王としてはルドヴィク1世)は、16歳になった1342年にルクセンブルク家の神聖ローマ皇帝カール4世(=ボヘミア王カレル1世)の娘マルガレーテ(このとき7歳)と結婚したが、1349年、14歳になった彼女はヨーロッパを襲った黒死病で亡くなった。そのあと、1353年にラヨシュ1世はボスニアのエリザベートと結婚して3人の娘に恵まれたが、男子は生れなかった。
    (*7)ヤギェウォ朝は初代ヨガイラ(ヴワディスワフ2世ヤギェウォ:在位1386年~1434年)から7代目のジグムント2世アウグスト(在位1548年~1572年)まで続くが、ここで男系が途絶えてジグムント2世の妹アンナがトランシルヴァニアから婿ステファン・バトーリ(在位1476年~1486年)を迎えた。したがって、ヤギェウォ朝はほぼ200年続いた。
    (*8)ヨガイラはポーランド王でありリトアニア大公であったが、王と大公は同格でないから、リトアニア大公はポーランド王に従うことになり、これがリトアニアにとって大きな問題であった。ヨガイラのあとリトアニア大公となったヴィタウタス(ヨガイラの従兄弟)が、晩年、ローマ教皇からリトアニア王として戴冠する承認を得て戴冠式を準備したこと、そして、その戴冠式がポーランドの貴族たちの暗躍によって阻止されたこと、その結果、戴冠を果すことなく亡くなったヴィタウタスの悲劇、これら全てはこの問題の深刻さを物語っている。
    (*9)「余談84:クレヴァの決議」参照。
    (*10)これはヤドヴィガがオーストリアのヴィルヘルムと婚約していたからである(「余談84:クレヴァの決議」参照)。
    (*11)ウルバヌス6世(在位1378年~1389年)はアヴィニョン教皇時代が終わった後に選出された教皇だが、ローマ教会大分裂の原因をつくった悪名高い教皇で、彼の横暴なやり方が対立教皇クレメンス7世の選出へと事態を悪化させた。
    (*12)ボニファティウス9世(在位1389年~1404年)はウルバヌス6世の後継教皇。
    (*13)1374年の「カサの特権」(「コシツェの法令」とも呼ぶ)によって、ポーランドの貴族たちは多くの特権を認められていた。
    (*14)マゾフシェ公シェモヴィト4世については「余談84:クレヴァの決議」参照。ポーランド王となったヨガイラは、実妹のアレクサンドラをシェモヴィト4世に嫁がせ、彼に新たな領地を与えて懐柔している。
    (2019年2月 記)
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