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  • リトアニア史余談82:発効しなかった条約/武田充司@クラス1955

    $00A0$00A0 カウナスからニェムナス川を45kmほど下ると右からドゥビサ川が合流してくる。1382年秋、リトアニア大公ヨガイラは、実弟スキルガイラとともに、ドイツ騎士団との和平交渉に臨むためドゥビサ川がニェムナス川に合流する地点にある小島に向った。

    $00A0$00A0 交渉は同年10月31日に妥結して新たな条約が結ばれた。その条約の中でヨガイラは3つの約束をした。第1は、ヨガイラ自身が4年以内に洗礼をうけてカトリックに帰依し、リトアニアの民すべてに洗礼をうけさせること、第2に、ドゥビサ川以西のジェマイチアの土地をドイツ騎士団に譲渡すること、第3に、ドイツ騎士団と4年間の軍事同盟を結び、リトアニアはドイツ騎士団の了解なしに戦争を始めないことを約束した。
     この条約は締結された地点の名をとって「ドゥビサ条約」と呼ばれるが、それはヨガイラの叔父ケストゥティスがクレヴァの城で獄死した直後から始められた交渉の帰結だった(*1)。条約の調印には、大公ヨガイラを筆頭に、ヨガイラの実弟全員と彼らの母ユリアナ、そして、ヴィルニュス在住の商人ハヌルも加わっていた(*2)。これはまさに、故アルギルダス大公の2番目の后ユリアナの息子たちが母親とともに総がかりで取り組んだ最初の外交であった。しかし、それはまた、アルギルダス時代に獲得した東方の権益を守るために、ケストゥティスが死守したものをすべて投げ出すという大きな代償を払って、ドイツ騎士団による背後からの脅威を取り除こうとした危険な賭けでもあった(*3)。
     こうして、条約は調印されたのだが、どういうわけか、ヨガイラはリトアニア大公の証印(シール)を付すことをためらった(*4)。ドイツ騎士団総長コンラート・ツェルナー・フォン・ローテンシュタインは、ヨガイラのこの曖昧な態度に苛立ち、5度も証印の催促をしたという(*5)。その甲斐あってか、1383年7月19日、両陣営は再びドゥビサ川河口の小島で会い、証印の式を行うことになった。
     ドイツ騎士団総長コンラートは、ヨガイラに洗礼をうけさせるために2人の司教を伴って大勢の部下とともに、立派な大型船に乗って海路リトアニアに向った。しかし、バルト海からクライペダを通って内海に入り、ニェムナス川を遡ってくると、その年は生憎の渇水で、総長の大型船はドゥビサ川合流地点より遥か下流までしか航行できなかった。
     一方、ドイツ騎士団の到着の遅れに苛立った大公ヨガイラは、下流に使者を差し向けたが(*6)、ドイツ騎士団側はヨガイラに下流まで出向いてくれと言ってきた。この返答に腹を立てたヨガイラはそれを拒否し、証印の式をやらずに引き揚げてしまった(*7)。これに対してドイツ騎士団側も即座に条約を反故にし、同年7月30日、リトアニアに攻め込んできた(*8)。こうして、再びドイツ騎士団との戦いがはじまった。
    〔蛇足〕
    (*1)ヨガイラの叔父ケストゥティスの死については「余談81:ケストゥティスの最期」参照。
    (*2)このとき列席したユリアナの子は、長男ヨガイラを頭に、スキルガイラ、カリブタス、レングヴェニス、カリガイラ、ヴィガンタス、シュヴィトリガイラの7人である。ユリアナについては「余談79:アルギルダス大公没後の内紛」の蛇足(4)参照。ヴィルニュスの商人ハヌルについては「余談81:ケストゥティスの最期」の蛇足(5)参照。
    (*3)地図を見れば分るように、ドゥビサ川以西のジェマイチアが騎士団領になれば、ニェムナス川下流のリトアニアの前線拠点ヴェリュオナの砦(「余談70:ニェムナス川下流に進出したドイツ騎士団」参照)も失うことになり、カウナスの防衛は極めて困難になるばかりか、ジェマイチア西部がドイツ騎士団領となることによって、北のリヴォニア騎士団領とプロシャのドイツ騎士団領が陸続きで結ばれるため、リトアニアは完全に西方をドイツ騎士団に支配されて圧力をうける結果となる。これはドイツ騎士団が長年渇望していたことを戦わずして手に入れることであり、リトアニアの将来にとっては致命的な損失となる全くの外交的敗北を意味した。
    (*4)証印(シール)を付けることは現代でいう「条約の批准」に相当し、これがない文書は信用されない。すなわち、権威をもたないので条約は発効しない。ヨガイラが証印に躊躇して引き延ばした原因については、いろいろ言われているが、ひとつは、ロシア人正教徒の母ユリアナが、息子たち全員がカトリック教徒になってリトアニアをカトリックの国にすることに反対していたからだという。実際、彼女は第2項のジェマイチア譲渡の条項のみに署名したと言われている。また、ユリアナは若い時にモスクワの宮廷にいたからか(「余談79:アルギルダス大公没後の内紛」の蛇足(4)参照)、彼女はモスクワ公ドミートリイ・ドンスコイの娘ソフィアをヨガイラの嫁に迎えてモスクワと同盟しようと画策したことがある。しかし、これは幾つかの事情で実現しなかった。ヨガイラが証印の式を引き延ばした要因として、もうひとつ考えられるのが、当時のポーランド情勢である。この年(1382年)の9月に、ポーランド王を兼ねていたハンガリー王ラヨシュ1世が男子の世継ぎを残さずに急死した。王位継承に関するライシュ1世の遺言もあったが、やはり王位継承問題が起り、紛争が起っていた。ヨガイラはポーランド王位を狙って別のことを考え始めたのではないかという推測だ。
    (*5)前ドイツ騎士団総長ヴィンリヒ・フォン・クニプローデは30年に及ぶ長期政権で強力な指導力を発揮した人物だったが、そのあとを継いで騎士団総長となったばかりのコンラート・ツェルナー・フォン・ローテンシュタイン(在位1382年~1390年)は未知数の指導者であったから、慎重で賢いヨガイラは証印の式を引き延ばして新総長の出方を見ていたのかも知れない。
    (*6)このときの使者はヨガイラの実弟スキルガイラだった。
    (*7)ドイツ騎士団側のこの身勝手な言い分を、ヨガイラは侮辱とうけっとって、腹を立てて引き揚げたと単純に解釈することはできない。ドイツ騎士団の船はニェムナス川下流のドイツ騎士団の基地クリストメメルに停泊していたらしいから、慎重で疑い深いヨガイラは、そんなところまで出向くのは「飛んで火に入る夏の虫」のようなもので危険だと判断したに違いない。
    (*8)ドイツ騎士団もリトアニアとの交渉では幾度も騙され、煮え湯を飲まされてきた経験があるから、こうした事態には迷うことなく直ちに反応したのだ。
    (番外)彼らの交渉の舞台となったドゥビサ川がニェムナス川に合流する地点には、現在、セレジウス(Sered$017Eius)という町があり、そこには、伝説に彩られた「パレモナスの丘」(Palemono piliakalnis)という大きな丘がある。リトアニアの年代記によると、紀元前1000年頃、ローマからパレモナス(Palemonas)という人が一族と共にこの地に逃れてきて定住したという。昔、そこには城があった。この丘の上からニェムナス川を望む眺めは素晴らしい。
    (2018年11月 記)
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