リトアニア史余談80:ケストゥティスとヨガイラの確執/武田充司@クラス1955
記>級会消息 (2018年度, class1955, 消息)
アルギルダス大公が亡くなって2年後の1379年、ドイツ騎士団が再びリトアニアに侵攻し、首都ヴィルニュスに迫ってきた。
$00A0 父の死によってリトアニア大公となった若輩のヨガイラは、リトアニアをキリスト教国にすることを条件に、ドイツ騎士団と和解することを考え(*1)、実弟スキルガイラをドイツ騎士団に影響力をもつ西欧の君主のもとに派遣し平和的解決を模索した(*2)。
その結果、カトリック世界の指導者たちはドイツ騎士団総長に対してヨガイラと協調するよう助言したという(*3)。一方、こうしたヨガイラとスキルガイラ兄弟の努力とは別に、彼らの叔父ケストゥティスはドイツ騎士団と直接交渉して休戦に持ち込み、捕虜の交換をした。そこで、この年の9月29日、トラカイ(*4)において、ヨガイラは叔父とともにドイツ騎士団と10年間の休戦協定(*5)に署名した。
しかし、兄アルギルダスとの二人三脚で長い間リトアニアを支えてきたケストゥティスを取り巻く情況はアルギルダス没後急速に変わりつつあった。
その結果、カトリック世界の指導者たちはドイツ騎士団総長に対してヨガイラと協調するよう助言したという(*3)。一方、こうしたヨガイラとスキルガイラ兄弟の努力とは別に、彼らの叔父ケストゥティスはドイツ騎士団と直接交渉して休戦に持ち込み、捕虜の交換をした。そこで、この年の9月29日、トラカイ(*4)において、ヨガイラは叔父とともにドイツ騎士団と10年間の休戦協定(*5)に署名した。
しかし、兄アルギルダスとの二人三脚で長い間リトアニアを支えてきたケストゥティスを取り巻く情況はアルギルダス没後急速に変わりつつあった。
この休戦協定調印後の3日間、ヨガイラは密かにヴィルニュスにおいてドイツ騎士団と交渉を続けていた(*6)。そして、翌年(1380年)の2月27日、ヨガイラはリヴォニア騎士団と5か月間の休戦協定を結んだが、この時には既に叔父ケストゥティスは共同署名者ではなかった(*7)。さらに、この休戦協定が切れる前の5月31日、ヨガイラはケストゥティスに気づかれないようにドイツ騎士団と秘密の協定を結んだ(*8)。
1381年になって間もなく、ドイツ騎士団はジェマイチヤに侵攻し、ケストゥティスの本拠地トラカイをも攻撃してきた。これは前年にヨガイラと結んだ秘密協定を利用した軍事行動だった。
1381年になって間もなく、ドイツ騎士団はジェマイチヤに侵攻し、ケストゥティスの本拠地トラカイをも攻撃してきた。これは前年にヨガイラと結んだ秘密協定を利用した軍事行動だった。
ところが、その年(1381年)の夏、ケストゥティスはドイツ騎士団のオステローデ管区長クノ・フォン・リーベンシュタイン(*9)からこの秘密協定の存在を知らされた。そして、その年の秋になってポロツクで騒動が起った。ヨガイラの実弟スキルガイラをポロツク公にして異母兄アンドレイを追い出そうとしたヨガイラの計画に反発したポロツクの人々がアンドレイを支持して暴動を起したのだ(*10)。この暴徒を鎮圧するためにヨガイラとスキルガイラの兄弟が首都ヴィルニュスを留守にしている間に、意を決したケストゥティスはヴィルニュスに入って政権を奪取し、1381年秋、リトアニア大公の座に就いた。
ヨガイラはヴィルニュスに戻ってくる途中で捕らえられ、監禁された。その後、アンドレイはケストゥティスによって改めてポロツク公に任命された。こうしてヨガイラとの争いは一段落したかに見えたが、そうではなかった。
〔蛇足〕
(*1)それまでも、リトアニアの君主は度々こうした提案を行っていたが、ほとんどの場合、それは一時凌ぎの策略で、キリスト教(カトリック)を受容する気はなかった。しかし、ヨガイラはこの問題を真剣に考えていたと思われる。
(*2)スキルガイラは、ポーランド王を兼ねていたハンガリー王ラヨシュ1世(在位1342年~1382年、ポーランド王在位1370年~1382年)に会い、さらに、ボヘミア王で神聖ローマ帝国皇帝だったヴェンツェル(皇帝在位1378年~1400年、ボヘミア王ヴァーツラフ4世としての在位1378年~1419年)を訪れた。また、教皇ウルバヌス6世(在位1378年~1389年)にも会ったという噂もあり、彼がどのような旅をしたのかその全貌は不明である。
(*3)このときのドイツ騎士団総長はヴィンリヒ・フォン・クニプローデ(在位1352年~1382年)で、当時、既に69歳の高齢であったから、和平提案もうけ入れ易かったのであろう。
(*4)兄アルギルダスとの両頭政治時代から、トラカイはケストゥティスの居城で兄は首都ヴィルニュスにいたので、ヨガイラもこの時はヴィルニュスを居城としていた。
(*5)「余談79:アルギルダス大公没後の内紛」の蛇足(7)はこれを指す。
(*6)このときの休戦協定はケストゥティス主導で進められたらしく、休戦の範囲がケストゥティス支配下の地域に限られているという疑念と不安がヨガイラにあったらしい。それで、ヨガイラは協定締結後に密かに独自の交渉をして、自分に有利な秘密協定を結んだのかも知れない。
(*7)これはヨガイラに反抗していた異母兄アンドレイがポロツクを拠点にリヴォニア騎士団を利用して反乱を企むのを抑えるためであったようだが(「余談79:アルギルダス大公没後の内紛」参照)、5か月間という短期であったのは、次のドイツ騎士団との秘密協定までの繋ぎだったのかも知れない。いずれにせよ、この頃にはヨガイラにとって叔父ケストゥティスは邪魔者か仮想敵になっていたようだ。
(*8)この秘密協定の締結をケストゥティス側に気づかれないように、ドイツ騎士団は5月下旬に5日間の狩りを催して人目をそらしたという。しかし、この協定の調印にはケストゥティスの息子ヴィタウタスと彼の補佐官が立ち会っていたという。これはどうしたことかと、多くの議論を呼んでいるらしいが、この協定は「ドヴィディシュケス協定」(Dovydi$0161ki$0173 sutartis)と呼ばれていて、ドイツ騎士団とヨガイラ陣営は交戦せず、ドイツ騎士団がケストゥティス陣営を攻撃してもヨガイラ側は介入しないことなどが約束されていたというが、詳細は不明である。謎の多いこの秘密協定については専門家の研究に任せたい。
(*9)クノ・フォン・リーベンシュタインはケストゥティスの娘ダヌテ(Danut$0117:洗礼名アンナ)の代父で、彼女は1376年にワルシャワ公ヤヌシュ1世に嫁いでいる。オステローデ(Osterode)は現在のポーランド北部の都市オストルダ(Ostr$00F3da)である。
(*10)「余談79:アルギルダス大公没後の内紛」の蛇足(8)で述べたように、ヨガイラにとってポロツク公アンドレイは全く困った存在であったから、リトアニア大公の権限を行使して、信頼できる実弟スキルガイラをポロツク公に任命して異母兄アンドレイを排除しようとしたのだが、アンドレイはポロツクの人々に人気があって、この強引な人事がポロツク市民の反感を買い、暴動が起ったのだ。
(番外)ヨガイラの人物像について、ある専門家が興味深い考察をしているので、以下にそれを記す:ヨガイラは背が低く、物静かで、内省的で、逞しい武将とは正反対の印象を与える人だったので、当時の人からは侮られることが多かったが、これが間違いだった。実際、彼は慎重で思慮深い殆どミスをしない優秀な武将だった。彼は酒を飲まず、注意深く、忍耐強く、頑固だった。毎日、入浴し、ひげを剃っていた。また、ロシア人の母から強い個性と権力に対する野心をうけ継ぎ、何事も人と分かち合うのが嫌いだった。William Urban “The Samogitian Crusade” P.168~P.169より。
(2018年9月 記)
(*1)それまでも、リトアニアの君主は度々こうした提案を行っていたが、ほとんどの場合、それは一時凌ぎの策略で、キリスト教(カトリック)を受容する気はなかった。しかし、ヨガイラはこの問題を真剣に考えていたと思われる。
(*2)スキルガイラは、ポーランド王を兼ねていたハンガリー王ラヨシュ1世(在位1342年~1382年、ポーランド王在位1370年~1382年)に会い、さらに、ボヘミア王で神聖ローマ帝国皇帝だったヴェンツェル(皇帝在位1378年~1400年、ボヘミア王ヴァーツラフ4世としての在位1378年~1419年)を訪れた。また、教皇ウルバヌス6世(在位1378年~1389年)にも会ったという噂もあり、彼がどのような旅をしたのかその全貌は不明である。
(*3)このときのドイツ騎士団総長はヴィンリヒ・フォン・クニプローデ(在位1352年~1382年)で、当時、既に69歳の高齢であったから、和平提案もうけ入れ易かったのであろう。
(*4)兄アルギルダスとの両頭政治時代から、トラカイはケストゥティスの居城で兄は首都ヴィルニュスにいたので、ヨガイラもこの時はヴィルニュスを居城としていた。
(*5)「余談79:アルギルダス大公没後の内紛」の蛇足(7)はこれを指す。
(*6)このときの休戦協定はケストゥティス主導で進められたらしく、休戦の範囲がケストゥティス支配下の地域に限られているという疑念と不安がヨガイラにあったらしい。それで、ヨガイラは協定締結後に密かに独自の交渉をして、自分に有利な秘密協定を結んだのかも知れない。
(*7)これはヨガイラに反抗していた異母兄アンドレイがポロツクを拠点にリヴォニア騎士団を利用して反乱を企むのを抑えるためであったようだが(「余談79:アルギルダス大公没後の内紛」参照)、5か月間という短期であったのは、次のドイツ騎士団との秘密協定までの繋ぎだったのかも知れない。いずれにせよ、この頃にはヨガイラにとって叔父ケストゥティスは邪魔者か仮想敵になっていたようだ。
(*8)この秘密協定の締結をケストゥティス側に気づかれないように、ドイツ騎士団は5月下旬に5日間の狩りを催して人目をそらしたという。しかし、この協定の調印にはケストゥティスの息子ヴィタウタスと彼の補佐官が立ち会っていたという。これはどうしたことかと、多くの議論を呼んでいるらしいが、この協定は「ドヴィディシュケス協定」(Dovydi$0161ki$0173 sutartis)と呼ばれていて、ドイツ騎士団とヨガイラ陣営は交戦せず、ドイツ騎士団がケストゥティス陣営を攻撃してもヨガイラ側は介入しないことなどが約束されていたというが、詳細は不明である。謎の多いこの秘密協定については専門家の研究に任せたい。
(*9)クノ・フォン・リーベンシュタインはケストゥティスの娘ダヌテ(Danut$0117:洗礼名アンナ)の代父で、彼女は1376年にワルシャワ公ヤヌシュ1世に嫁いでいる。オステローデ(Osterode)は現在のポーランド北部の都市オストルダ(Ostr$00F3da)である。
(*10)「余談79:アルギルダス大公没後の内紛」の蛇足(8)で述べたように、ヨガイラにとってポロツク公アンドレイは全く困った存在であったから、リトアニア大公の権限を行使して、信頼できる実弟スキルガイラをポロツク公に任命して異母兄アンドレイを排除しようとしたのだが、アンドレイはポロツクの人々に人気があって、この強引な人事がポロツク市民の反感を買い、暴動が起ったのだ。
(番外)ヨガイラの人物像について、ある専門家が興味深い考察をしているので、以下にそれを記す:ヨガイラは背が低く、物静かで、内省的で、逞しい武将とは正反対の印象を与える人だったので、当時の人からは侮られることが多かったが、これが間違いだった。実際、彼は慎重で思慮深い殆どミスをしない優秀な武将だった。彼は酒を飲まず、注意深く、忍耐強く、頑固だった。毎日、入浴し、ひげを剃っていた。また、ロシア人の母から強い個性と権力に対する野心をうけ継ぎ、何事も人と分かち合うのが嫌いだった。William Urban “The Samogitian Crusade” P.168~P.169より。
(2018年9月 記)
2018年9月16日 記>級会消息