• 最近の記事

  • Multi-Language

  • リトアニア史余談73:ヴィルニュスを訪れた2組の使節団/武田充司@クラス1955

     1324年秋、リトアニアの首都ヴィルニュスを全く対照的な2組の使節団が訪れていた。

    $00A0 ひと組は南フランスのアヴィニョンからやってきた教皇特使で、もうひと組はカスピ海に注ぐヴォルガ川下流の首都サライからやってきたキプチャク汗国の使節団だった。
    $00A0 東と西の全く異なる2つの文明圏からやって来たこの対照的な使節団の到来はゲディミナス大公が築いたリトアニアの新首都ヴィルニュスの国際性を示す華やかな出来事であったが(*1)、それはまた、東西世界に跨る北東ヨーロッパの異教徒の国リトアニアがもつ2つの異なった顔が同時に見られる稀な機会でもあった。
     1324年6月初め、教皇ヨハネス22世はついにゲディミナスとの約束にしたがって教皇特使をアヴィニョンからリガに向けて出立させた(*2)。途中、デンマークに立ち寄った特使一行は(*3)、夏も終ろうとする9月、リガに到着し、リガ市民の盛大な歓迎をうけてひとまず長途の疲れを癒した(*4)。そして、11月3日、特使一行はヴィルニュスに入った。
    $00A0 ゲディミナス大公に謁見した教皇特使は、先ず、諸般の事情と準備のために特使派遣の約束を果たすのがこのように遅れたことを説明して教皇からの親書を手渡した(*5)。
    $00A0 その翌日、ゲディミナスは教皇特使一行との盛大な公式会合に臨んだが、その席には前日の短い謁見には姿を見せていなかった多数の廷臣たちも列席していた。ゲディミナスと膝突き合わせての率直な話合いを期待していた教皇特使にとってこれは意外であった。ゲディミナスを取り巻く重臣や顧問たちの鋭い目と耳が公式会合の空気を支配した(*6)。
    $00A0 一方、第9代汗ウズベクが君臨する当時のキプチャク汗国は絶頂期にあり、いわゆる「タタールのくびき」と呼ばれる間接統治によって広大なルーシの地を我が庭としていたのだが(*7)、この前年(1323年)、ゲディミナスはそのルーシの地の古都キエフを攻略したのだからただでは済まなかった(*8)。
    $00A0 汗ウズベクがヴィルニュスに差し向けた使節団は、ルーシの地をめぐる東西の両雄の駆引きが熾烈なものとなってゆく口火となった(*9)。
    $00A0 一説によると、ゲディミナスは汗ウズベクの使節団の対応に追われたため、教皇特使はゲディミナスに謁見することすら叶わなかったというが、これはおそらく後世の誇張による作り話だろう。
    $00A0 しかし、こうした逸話が残っているのは、このとき、ゲディミナスがどちらの使節団をより重視していたかを窺わせて興味深い。
    〔蛇足〕
    (*1)「余談66:ゲディミナス大公のつくったヴィルニュス」参照。
    (*2)「余談72:ゲディミナス大公と教皇ヨハネス22世」参照。教皇特使としてバルテルミ(Barth$00E9lemy)とベルナール(Bernard)という2人のフランス人ベネディクト会士が選ばれたが、バルテルミは高名な教会法学者で異端者の扱いに経験のある有能な人物であった。こうした人選は、リトアニアが単なる未開の異教徒の国ではなく、多くの正教徒を抱えた複雑な国であることを考慮した結果であろう。
    (*3)途中デンマークに寄ったのは、デンマーク王クリストファ2世の娘と神聖ローマ皇帝ルードヴィヒ4世の息子のブランデンブルク辺境伯ルードヴィヒ5世の婚約問題に関して、クリストファ2世宛の教皇親書を預かっていたためである。
    (*4)教皇特使一行の中にリガの大司教フリードリヒ(「余談72:ゲディミナス大公と教皇ヨハネス22世」参照)がいた。1313年にドイツ騎士団が破門されたが(「余談69:ドイツ騎士団本部のマリエンブルク移転」参照)、それに対抗してドイツ騎士団はフリードリヒをリガから追放したため、フリードリヒはアヴィニョンに逃れていた。そのとき以来11年ぶりにフリードリヒ大司教はリガに戻ったのだった。教皇はリヴォニアやプロシャの騎士たちが教皇の命に背くようなことがあれば、教皇に代わって、彼らを直ちに破門する権限をフリードリヒ大司教に与えていた。
    (*5)教皇特使はドイツ騎士団総長宛の教皇親書も携えていたが、これら2つの親書は何れも比較的穏やかな調子のもので、教皇がドイツ騎士団とリトアニアの両方に配慮して調停しようとする意図が表れていた。
    (*6)ゲディミナスを取り巻く廷臣たちはキリスト教(カトリック)の受容に反対であったから、これらの廷臣たちを列席させたゲディミナスは彼らに牽制されて自分の意思を隠したのか、それとも意図的に彼らを利用したのか、これは歴史の謎だが、多分、後者であろう。このあと、両陣営の書記たちが集まって会合の成果を要約したが、ゲディミナスの分かりにくい独特の迂言の中には、彼が洗礼をうけてカトリックを受容するという表現は全く見当たらないことが判明した。結局、それ以前にリヴォニア騎士団がドイツ騎士団総長の了解なしにリトアニアと締結していた「ヴィルニュス条約」の有効性が教皇によって確認され、ドイツ騎士団もこれに従うことになり、リトアニアはキリスト教(カトリック)を受容することもなく、ドイツ騎士団との以後4年間にわたる休戦期間を確保した。これはゲディミナスの巧妙な駆引きによる外交的勝利であったといえる。
    (*7)キプチャク汗国と「タタールのくびき」については「余談67:ゲディミナス大公のキエフ攻略」の蛇足(9)参照。
    (*8)「余談67:ゲディミナス大公のキエフ攻略」の蛇足(10)参照。
    (*9)実際、「余談67:ゲディミナス大公のキエフ攻略」で述べたように、リトアニアが攻略したキエフに対して、キプチャク汗国は1324年から25年にかけて反撃しているし、キエフ総督となったゲディミナスの弟フェドルも実質的に「タタールのくびき」に呻吟したらしいから、汗ウズベクの圧力は相当なものであったようだ。また、当時、ウラジーミル大公であったトヴェーリ公ドミートリイがウズベクの不興を買ってキプチャク汗国の宮廷に監禁されていたのだが、この使節団がヴィルニュスを訪れた翌年(1325年)の9月にウズベクはドミートリイを処刑した。ドミートリイの后はゲディミナスの娘マリア(正教徒としての洗礼名)であることを考え合わせると、この事件もウズベクとゲディミナスの確執を感じさせる。
    (番外)ウラジーミル大公というのは、当時のルーシ諸公を束ねて上に立つ「公の中の公、すなわち、大公」で、ドイツ史における神聖ローマ皇帝に似ている。キプチャク汗国の汗は、全ルーシの諸公を支配する手段として、このウラジーミル大公を臣従させ、生殺与奪の権限を握っていた。したがって、ルーシ諸公を抑えてウラジーミル大公位を手に入れても、キプチャク汗国の汗の承認なしには何の権威もなかった。
    (2017年8月 記)
    コメントはまだありません »
    Leave a comment

    コメント投稿後は、管理者の承認まで少しお待ち下さい。また、コメント内容によっては掲載を行わない場合もあります。