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  • 霧のロンドン/武田充司@クラス1955

     5週間滞在したウォーリントンのオールド・ヴィカリジ・ホテルを引き払って、ロンドン東郊外のエリス(Erith)に落ち着いたのは1962年の11月半ばだった。今度はイギリス人の家庭に下宿した。

     2年前の米国留学でも研究所の近くのアメリカ人の家庭に下宿した経験があったので、ロンドン郊外の平均的サラリーマンの家庭に下宿することに抵抗はなかった。アメリカでは敬虔なプロテスタンの下級サラリーマンの若い夫婦と幼い娘の3人暮らしの家族に半年ほどお世話になったが、エリスでは中年の夫婦と小学生の男の子の3人家族の家だった。
     その家からエリスの工場までは歩いて15分ほどだったから、毎日歩いて通ったが、12月になると、ロンドン名物の「スープのような濃い霧」が立ち込めて1週間ほど居座った。それでなくとも高緯度のロンドンの12月は暗くて日が短いのに、この濃霧のおかげで短い日中さえも夜と殆ど変わらない陰鬱さだ。朝夕の出退勤時刻はほとんど暗い夜なのだ。ユーモア溢れるイギリス紳士は、朝8時に職場で顔を合わせると、真面目な顔をして“Good evening, Gentlemen!”なんて挨拶するのだ。
     しかし、夕方5時過ぎの退勤時は地獄だった。深夜同然の真っ暗な中を、あの黄色いナトリウム街路灯の光を頼りに視界1~2メートルの濃霧の中を家まで歩かなければならない。早足で歩くと、目の前に突然大男が現われて衝突するから、1~2メートル前方に何が現われるか目を凝らしながらゆっくり前進するのだ。道を間違えないように、歩道脇の家の塀や門の形を確認しながら進むのだが、十字路に来ると対岸が全く見えないので、間違いなく目的の道路に渡るのには苦労する。幸い、こういうときには車は運転できないから自動車に轢かれる心配はないが、それでも十字路は人と衝突する心配がある。普段は15分で帰宅できたのに、こういうときには45分から1時間もかかってしまう。
     へとへとになって下宿に辿り着くと、外気が家の中に入り込まないように2重ドアの玄関を手際よく開閉して家に入らないと下宿のおばさんが不機嫌になる。部屋に入って鼻をかむと黒い鼻汁が出てくる。それは日本のマスクをする習慣が懐かしくなる瞬間だった。
     濃い霧の中にガス灯の鈍い光が浮かびだす19世紀のロマンチックな「霧のロンドン」はシャーロック・ホームズの舞台にはよいが、第2次世界大戦後のロンドンの霧は各家庭の暖房で燃やされる石炭の煤煙と街中走り回っているあの大きな2階建てのディーゼル・バスの排気のおかげで、「ロンドン・スモグ」と呼ばれるようになってしまった。
     歴史に残る「1952年のロンドン・スモグ」では1万2千人もの犠牲者が出たというから、1962年12月のスモグなど当時のロンドンっ子にとっては大したことではなかったらしいが、初体験の者にとっては忘れ難い思い出となった。しかし、今や、ロンドンの冬も綺麗になったから、こんな話もやがて忘れられてしまうのだろう。
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