リトアニア史余談62:大プロシャ反乱とヘルクス・マンタス/武田充司@クラス1955
記>級会消息 (2016年度, class1955, 消息)
ポーランド北東部に入植したドイツ騎士団によって瞬く間に征服されたプロシャ人諸部族は、1260年9月20日、結束してドイツ人の統治に反旗を翻し、一斉に蜂起した。これがその後「大プロシャ反乱」と呼ばれる長い戦いのはじまりであった(*1)。
彼らは、北方の隣人ジェマイチア人(*2)がこの年の7月に「ドゥルベ湖畔の戦い」でリヴォニア騎士団を撃破したことに刺激され、それまで見られなかった部族間の連携による組織化された反乱を起したのだった(*3)。
各地で一斉に蜂起したプロシャ人諸部族は、布教のために現地に入っていた聖職者や交易目的でプロシャ人と接触していた商人たちを真っ先に血祭りに上げ、入植者や一時滞在の西欧キリスト教徒もすべて襲撃の対象となった。女子供は虐殺を免れたが、捕らえられ奴隷とされた。また、彼らキリスト教徒に協力的だと疑われたプロシャ人同胞までもが虐殺された。こうして、反乱の緒戦は大成功をおさめ、各地のドイツ騎士団の城は包囲され孤立した。この戦いでプロシャ人軍団の指揮をとっていたのが、つい先日までドイツ騎士団の模範的一員として活躍していたヘルクス・マンタスであった(*4)。
しかし、ドイツ騎士団が築いた城郭の守りは堅く、さすがのヘルクス・マンタスも攻め倦んだ。ドイツ騎士団も必死であった。反乱が起ってから半年ほど経った1261年1月、ドイツ騎士団の支援要請に応えてマグデブルクから援軍の第一陣が到着し、これにポーランド諸公からの援軍も加わったため、形勢は逆転した。それを見たヘルクス・マンタスは攻城戦を中止し、早々に撤退した(*5)。ところが、それを追撃してきた敵軍を森の中に誘い込んで分散させると、ヘルクス・マンタスはゲリラ戦に転じて彼らを各個撃破した(*6)。
その結果、プロシャ人の反乱は益々勢いを増し、燎原の火の如く燃え広がった。そして、ドイツ騎士団の北の要衝ケーニヒスベルクが包囲されたことによって事態は重大な局面を迎えた(*7)。しかし、優位に立って気の緩みが生じたプロシャ人の僅かな隙を突いて海上からリヴォニア騎士団と連絡をとり、援軍を誘導したドイツ人の隠密作戦によって、プロシャ人の包囲網は破られ、激戦となった。その戦いのさなか、ヘルクス・マンタスは敵の投げた槍を受けて負傷し、ついにケーニヒスベルク攻略をあきらめ撤退した。
その結果、プロシャ人の反乱は益々勢いを増し、燎原の火の如く燃え広がった。そして、ドイツ騎士団の北の要衝ケーニヒスベルクが包囲されたことによって事態は重大な局面を迎えた(*7)。しかし、優位に立って気の緩みが生じたプロシャ人の僅かな隙を突いて海上からリヴォニア騎士団と連絡をとり、援軍を誘導したドイツ人の隠密作戦によって、プロシャ人の包囲網は破られ、激戦となった。その戦いのさなか、ヘルクス・マンタスは敵の投げた槍を受けて負傷し、ついにケーニヒスベルク攻略をあきらめ撤退した。
こうして、ケーニヒスベルクの攻防は小休止したが、暫くすると、傷の癒えたヘルクス・マンタスは再びケーニヒスベルクに挑んだ。しかし、城を落すことの難しさを知ってか、彼は城下町とその周辺地域を徹底的に破壊する焦土作戦をとった。その結果、荒廃したケーニヒスベルクは裸の要塞と化し、無力化した。このあと、プロシャ人は西に向かって進撃し、騎士団領の心臓部を襲撃するようになったため、反乱は新たな段階に突入した(*8)。
〔蛇足〕
(*1)1260年9月に始まった「大プロシャ反乱」は、その後、15年も続き、1274年から75年に至って漸く終息した。この反乱は、1242年に始まり49年に終った「第1回プロシャ反乱」(「余談59:ドイツ騎士団に征服されたプロシャ人」参照)に続く大きな反乱であったから、「第2回プロシャ反乱」と位置づけられるが、その規模の大きさから、特に「大プロシャ反乱」と呼ばれている。そして、この長期にわたる反乱(言い換えれば、ドイツ騎士団領内の内戦)によって、ドイツ騎士団が入植して以来営々として築き上げた「ドイツ人のプロシャ」は殆ど破壊され荒廃した。
(*2)「余談17:ミンダウガスの戴冠」参照。
(*3)「ドゥルベ湖畔の戦い」については「余談61:キリスト教徒になったヘルクス・マンタス」参照。この戦いで、ジェマイチア人は諸部族が協力して戦った。プロシャ人はこれを見習ったのであろう。リトアニアのバルト族は、これよりずっと前から既に諸部族が連合して戦ったり、平和条約を締結したりしているから(「余談49:戦うリトアニアのバルト族」および「余談50:ヴォリニアとの平和条約」参照)、プロシャ人諸部族がこうした行動にでるのも自然の成り行きであった。とにかく、彼らは、各部族の長老たちが密かに集まって謀議し、連携して反乱を起した。
(*4)ヘルクス・マンタスについては「余談61:キリスト教徒になったヘルクス・マンタス」参照。彼がどうしてこのように立場を変えたのか、それは推測するしかないが、「余談61」で述べたように、数ヶ月足らず前に経験した「ドゥルベ湖畔の戦い」での敗北が直接の原因であったのだろう。19世紀のヨーロッパ民族主義の高揚期以降、彼の行動はバルト族としての民族的覚醒の現われとして高く評価されているが、それも真実の一部かも知れない。
(*5)このときヘルクス・マンタスが包囲したドイツ騎士団の城は、現在のロシア領カリーニングラード州とポーランドとの国境近くにあるロシアの都市バグラチオノフスク(Bagrationovsk)にあった城で、当時はクロイツブルク(Kreuzburg)と呼ばれていた。
(*6)森の中に逃げ込んだプロシャ人を殲滅するために、西欧の騎士たちは、森の中の適当な場所に武器食糧などを集積した拠点キャンプを設け、そこに守備隊を置いて、他の騎士たちは分散して索敵行動をとるのが普通であった。それを知っていたヘルクス・マンタスは、土地勘のある森の中を敏速に移動して敵軍を幻惑し、虚を突いて守備が手薄になった拠点キャンプを急襲した。扇の要に相当するキャンプ地を破壊された西欧の軍団は、不案内な森の中でゲリラ戦を戦いながら急いで撤退したが、殆ど逃げ切れず壊滅した。
(*7)「大プロシャ反乱」初期の主戦場は、ドイツ騎士団支配地域の北東部、すなわち、ヘルクス・マンタスの出身地であるナタンギアからその北隣のケーニヒスベルク地域であったから、この地域の最重要拠点ケーニヒスベルクが包囲されたことはドイツ騎士団にとって大きな脅威となった。
(*8)ケーニヒスベルクが無力化され、ドイツ騎士団領の北東部が荒廃すると、反乱軍に余裕が生まれた。その結果、彼らは西方のドイツ騎士団領の中心部に侵攻するようになったのだが、要所に築かれたドイツ騎士団の拠点は、堅固な城壁で囲まれ要塞化されていたから、殆ど難攻不落であった。これに対して、プロシャ人は少規模で軽装備の騎馬軍団を編成し、城郭都市に奇襲をかけた。それを追い払おうと城壁外にドイツ騎士団軍が出撃すると、彼らは直ぐに周辺の森の中に逃げ込み、追っ手を煙にまいて何処からともなく戻ってきて、開いている城門から守備の手薄になった城壁内に入り、火を放って人々を殺戮するなど、その手口は巧妙を極めた。したがって、城は落ちなくとも、城内の守備隊は消耗し疲弊した。結局のところ、点を支配しても面を支配できないドイツ騎士団は、衆寡敵せず、敵意に満ちた無数の現地人に囲まれて徐々に追い詰められていった。
(2016年9月 記)
(*1)1260年9月に始まった「大プロシャ反乱」は、その後、15年も続き、1274年から75年に至って漸く終息した。この反乱は、1242年に始まり49年に終った「第1回プロシャ反乱」(「余談59:ドイツ騎士団に征服されたプロシャ人」参照)に続く大きな反乱であったから、「第2回プロシャ反乱」と位置づけられるが、その規模の大きさから、特に「大プロシャ反乱」と呼ばれている。そして、この長期にわたる反乱(言い換えれば、ドイツ騎士団領内の内戦)によって、ドイツ騎士団が入植して以来営々として築き上げた「ドイツ人のプロシャ」は殆ど破壊され荒廃した。
(*2)「余談17:ミンダウガスの戴冠」参照。
(*3)「ドゥルベ湖畔の戦い」については「余談61:キリスト教徒になったヘルクス・マンタス」参照。この戦いで、ジェマイチア人は諸部族が協力して戦った。プロシャ人はこれを見習ったのであろう。リトアニアのバルト族は、これよりずっと前から既に諸部族が連合して戦ったり、平和条約を締結したりしているから(「余談49:戦うリトアニアのバルト族」および「余談50:ヴォリニアとの平和条約」参照)、プロシャ人諸部族がこうした行動にでるのも自然の成り行きであった。とにかく、彼らは、各部族の長老たちが密かに集まって謀議し、連携して反乱を起した。
(*4)ヘルクス・マンタスについては「余談61:キリスト教徒になったヘルクス・マンタス」参照。彼がどうしてこのように立場を変えたのか、それは推測するしかないが、「余談61」で述べたように、数ヶ月足らず前に経験した「ドゥルベ湖畔の戦い」での敗北が直接の原因であったのだろう。19世紀のヨーロッパ民族主義の高揚期以降、彼の行動はバルト族としての民族的覚醒の現われとして高く評価されているが、それも真実の一部かも知れない。
(*5)このときヘルクス・マンタスが包囲したドイツ騎士団の城は、現在のロシア領カリーニングラード州とポーランドとの国境近くにあるロシアの都市バグラチオノフスク(Bagrationovsk)にあった城で、当時はクロイツブルク(Kreuzburg)と呼ばれていた。
(*6)森の中に逃げ込んだプロシャ人を殲滅するために、西欧の騎士たちは、森の中の適当な場所に武器食糧などを集積した拠点キャンプを設け、そこに守備隊を置いて、他の騎士たちは分散して索敵行動をとるのが普通であった。それを知っていたヘルクス・マンタスは、土地勘のある森の中を敏速に移動して敵軍を幻惑し、虚を突いて守備が手薄になった拠点キャンプを急襲した。扇の要に相当するキャンプ地を破壊された西欧の軍団は、不案内な森の中でゲリラ戦を戦いながら急いで撤退したが、殆ど逃げ切れず壊滅した。
(*7)「大プロシャ反乱」初期の主戦場は、ドイツ騎士団支配地域の北東部、すなわち、ヘルクス・マンタスの出身地であるナタンギアからその北隣のケーニヒスベルク地域であったから、この地域の最重要拠点ケーニヒスベルクが包囲されたことはドイツ騎士団にとって大きな脅威となった。
(*8)ケーニヒスベルクが無力化され、ドイツ騎士団領の北東部が荒廃すると、反乱軍に余裕が生まれた。その結果、彼らは西方のドイツ騎士団領の中心部に侵攻するようになったのだが、要所に築かれたドイツ騎士団の拠点は、堅固な城壁で囲まれ要塞化されていたから、殆ど難攻不落であった。これに対して、プロシャ人は少規模で軽装備の騎馬軍団を編成し、城郭都市に奇襲をかけた。それを追い払おうと城壁外にドイツ騎士団軍が出撃すると、彼らは直ぐに周辺の森の中に逃げ込み、追っ手を煙にまいて何処からともなく戻ってきて、開いている城門から守備の手薄になった城壁内に入り、火を放って人々を殺戮するなど、その手口は巧妙を極めた。したがって、城は落ちなくとも、城内の守備隊は消耗し疲弊した。結局のところ、点を支配しても面を支配できないドイツ騎士団は、衆寡敵せず、敵意に満ちた無数の現地人に囲まれて徐々に追い詰められていった。
(2016年9月 記)
2016年9月16日 記>級会消息