リトアニア史余談60:ケーニヒスベルク/武田充司@クラス1955
記>級会消息 (2016年度, class1955, 消息)
旧制の教育をうけた人たちの中には、カリーニングラードと言われてもピンとこなくても、「昔のケーニヒスベルクですよ」と言われれば、「そうか、イマヌエル・カントの故郷か」とか、「“ケーニヒスベルクの7つの橋の問題”なんていうのがあったなあ」などと、人によって思い出すものが違っても、何か分かったような気になる人も多いと思う(*1)。しかし、いまでは、ケーニヒスベルクという名も知らない世代ばかりになってきたようだ。
$00A0 かつて学術文化の中心地として栄えた東プロイセンの古都ケーニヒスベルクは、いまは跡形もなく消え去り、スターリンのバーバーリズムがそれに取って代わっている(*2)。それが昔を知る多くの人のノスタルジアを誘っているようだ。しかし、そのケーニヒスベルクも、西バルト族の先住民プロシャ人の集落をこの地上から消し去って打ち立てられた。
プロシャ人討伐のために招かれてポーランド北部に入植したドイツ騎士団は、13世紀半ばまでには、ほぼその目的を達成していたが(*3)、1250年代に入ると、北東に向かってさらに支配地域を拡大しようとしてサンビア半島の征服に乗り出した。サンビア半島はバルト海に面する現在のロシア領の飛び地カリーニングラード州の西端に突き出した瘤状の半島である(*4)。
1253年、ドイツ騎士団総長に就任したポッポ・フォン・オステルナは教皇インノケンティウス4世を動かしてサンビア討伐の十字軍を起した(*5)。そして、その翌年、ボヘミア王プシェミスル・オタカル2世を総司令官とする総勢6万とも伝えられる十字軍がプロシャのドイツ騎士団のもとに結集した(*6)。
1253年、ドイツ騎士団総長に就任したポッポ・フォン・オステルナは教皇インノケンティウス4世を動かしてサンビア討伐の十字軍を起した(*5)。そして、その翌年、ボヘミア王プシェミスル・オタカル2世を総司令官とする総勢6万とも伝えられる十字軍がプロシャのドイツ騎士団のもとに結集した(*6)。
冬が来て河川が凍結すると、十字軍はサンビアに侵攻し、瞬く間にプロシャ人諸部族を平定し、翌年(1255年)の1月までにはサンビア征服を達成した(*7)。そして、ドイツ騎士団は、サンビア半島の南東部でバルト海に注ぐプレーゲル川の河口近くに新たな城を築いてサンビア支配の拠点とすることにした。その辺りには小さな丘があり、その麓にはサンビア人部族の集落があった。ドイツ騎士団はその丘の上に城を築いた。そして、その丘を、サンビア討伐十字軍の総指揮官であるボヘミア王プシェミスル・オタカル2世を讃えて「王の丘」(ケーニヒスベルク)と名づけた(*8)。
その後、ケーニヒスベルクの城はドイツ騎士団にとって北方を固める最も重要な拠点となったが、今は昔の威容を偲ぶものは何ひとつ残っていない。1255年に誕生したケーニヒスベルクは、1945年、その690年の歴史の幕を閉じ、カリーニングラードという全く別の都市になったのだ。
〔蛇足〕
(*1)哲学者カントはケーニヒスベルクに生れだが、数学者ヒルベルトの故郷もケーニヒスベルクである。アインシュタインの特殊相対性理論を4次元空間の幾何学として定式化したミンコフスキーはリトアニアのカウナス(Kaunas)の旧市街の南側の対岸アレクソタス(Aleksotas)で生まれたが、子供の頃、両親とともにケーニヒスベルクに移住してケーニヒスベルク大学で学び、そこでヒルベルに出会っている。「ケーニヒスベルクの7つの橋の問題」は、ケーニヒスベルクを流れるプレーゲル(Pregel)川にある2つの中州にかかっていた7つの橋を1度だけ渡って散歩する「一筆書き」のコースがあるか、という問題だが、既に不可能であることがグラフ理論によって証明されている。なお、プレーゲル川はドイツ人の呼び方で、現在はプレゴリャ(Pregolja)川と呼ぶ。
(*2)ケーニヒスベルクは第2次世界大戦末期の1944年に実施された連合国軍の大空襲によって殆ど破壊し尽くされたので、ケーニヒスベルクの消滅をスターリンの蛮行にのみ帰するのは間違いだが、1945年以降、ソ連領となって、あの灰色のスターリン様式(?)の都市に生まれ変わってしまったことは事実だ。カリーニングラード(Kaliningrad)という名は、ロシア革命当時からのボリシェヴィキであるミハイル・カリーニンに由来するが、カリーニンはソ連最高会議幹部会議長(首相に相当する役職)などを務めた人物だが、めずらしく、スターリンの大粛清時代を無事に生き延びている。
(*3)「余談59:ドイツ騎士団に征服されたプロシャ人」参照。
(*4)「余談9:バルト海の琥珀と琥珀の道」および「余談22:琥珀のロザリオ」参照。
(*5)この前年、ドイツ騎士団の司令官がサンビア半島のバルト族(プロシャ人)の伝統的信仰の「神聖な場所」(これをリトアニア語でromuva〔ロムヴァ〕という)を襲撃したが、失敗して司令官自身が戦死するという事件があった。こうしたことから、騎士団総長ポッポ・フォン・オステルナ(Poppo von Osterna:在位1253年~1257年)は、ドイツ騎士団が自力でサンビア半島を征服するのは困難と考え、十字軍という名目で西欧から多数の騎士や兵を集めてその戦力を利用しようとした、というのが実態であろう。
(*6)このとき集まった十字軍は、プシェミスル・オタカル2世(P$0159emysl Otakar Ⅱ:在位1253年~1278年)のボヘミア軍のほかに、モラヴィア(ボヘミアの東方、現在のチェコの東部地域)のオロモウツ(Olomouc)の司教ブルーノに率いられたモラヴィア軍、アスカニア家のブランデンブルク辺境伯オットー3世率いるザクセン軍、ハプスブルク家のルドルフ4世が派遣したオーストリア軍などで構成されていた。ハプスブルク家のルドルフ4世は、のちにドイツ王、即ち、神聖ローマ皇帝ルドルフ1世(在位1273年~1291年)となった人である。
(*7)サンビア半島での戦いは、現在のカリーニングラード市中心部から北へ20kmほど離れたメリニコヴォ(Mel’nikovo)付近での戦いが「ルダウの戦い」として記録されている。ルダウ(Rudau)はメリニコヴォのドイツ人による当時の地名である。その後、彼らはプレーゲル川(現在のプレゴリャ川)の上流に向かって、即ち、東に向かって進撃し、上流のヴェーラウ(Wehlau:現在のズナメンスク〔Znamensk〕の対岸)辺りまで征服してそこに城を築いたが、その城の守備を、降伏してキリスト教徒となったサンビア人武将父子に任せた。降伏して洗礼をうけ、キリスト教徒になった者には寛大に、従わず戦う者には容赦なく残忍な死を、というドイツ騎士団の鉄則がここでも貫かれた。
(*8)ケーニヒスベルク(K$00F6nigsberg)は文字通り、「王」(K$00F6nig)の「丘」(Berg)である。当時、その場所はサンビアの人たちによってトゥヴァングステ(Tvangste)と呼ばれていた。これがケーニヒスベルク以前のこの地の名である。
(2016年7月 記)
(*1)哲学者カントはケーニヒスベルクに生れだが、数学者ヒルベルトの故郷もケーニヒスベルクである。アインシュタインの特殊相対性理論を4次元空間の幾何学として定式化したミンコフスキーはリトアニアのカウナス(Kaunas)の旧市街の南側の対岸アレクソタス(Aleksotas)で生まれたが、子供の頃、両親とともにケーニヒスベルクに移住してケーニヒスベルク大学で学び、そこでヒルベルに出会っている。「ケーニヒスベルクの7つの橋の問題」は、ケーニヒスベルクを流れるプレーゲル(Pregel)川にある2つの中州にかかっていた7つの橋を1度だけ渡って散歩する「一筆書き」のコースがあるか、という問題だが、既に不可能であることがグラフ理論によって証明されている。なお、プレーゲル川はドイツ人の呼び方で、現在はプレゴリャ(Pregolja)川と呼ぶ。
(*2)ケーニヒスベルクは第2次世界大戦末期の1944年に実施された連合国軍の大空襲によって殆ど破壊し尽くされたので、ケーニヒスベルクの消滅をスターリンの蛮行にのみ帰するのは間違いだが、1945年以降、ソ連領となって、あの灰色のスターリン様式(?)の都市に生まれ変わってしまったことは事実だ。カリーニングラード(Kaliningrad)という名は、ロシア革命当時からのボリシェヴィキであるミハイル・カリーニンに由来するが、カリーニンはソ連最高会議幹部会議長(首相に相当する役職)などを務めた人物だが、めずらしく、スターリンの大粛清時代を無事に生き延びている。
(*3)「余談59:ドイツ騎士団に征服されたプロシャ人」参照。
(*4)「余談9:バルト海の琥珀と琥珀の道」および「余談22:琥珀のロザリオ」参照。
(*5)この前年、ドイツ騎士団の司令官がサンビア半島のバルト族(プロシャ人)の伝統的信仰の「神聖な場所」(これをリトアニア語でromuva〔ロムヴァ〕という)を襲撃したが、失敗して司令官自身が戦死するという事件があった。こうしたことから、騎士団総長ポッポ・フォン・オステルナ(Poppo von Osterna:在位1253年~1257年)は、ドイツ騎士団が自力でサンビア半島を征服するのは困難と考え、十字軍という名目で西欧から多数の騎士や兵を集めてその戦力を利用しようとした、というのが実態であろう。
(*6)このとき集まった十字軍は、プシェミスル・オタカル2世(P$0159emysl Otakar Ⅱ:在位1253年~1278年)のボヘミア軍のほかに、モラヴィア(ボヘミアの東方、現在のチェコの東部地域)のオロモウツ(Olomouc)の司教ブルーノに率いられたモラヴィア軍、アスカニア家のブランデンブルク辺境伯オットー3世率いるザクセン軍、ハプスブルク家のルドルフ4世が派遣したオーストリア軍などで構成されていた。ハプスブルク家のルドルフ4世は、のちにドイツ王、即ち、神聖ローマ皇帝ルドルフ1世(在位1273年~1291年)となった人である。
(*7)サンビア半島での戦いは、現在のカリーニングラード市中心部から北へ20kmほど離れたメリニコヴォ(Mel’nikovo)付近での戦いが「ルダウの戦い」として記録されている。ルダウ(Rudau)はメリニコヴォのドイツ人による当時の地名である。その後、彼らはプレーゲル川(現在のプレゴリャ川)の上流に向かって、即ち、東に向かって進撃し、上流のヴェーラウ(Wehlau:現在のズナメンスク〔Znamensk〕の対岸)辺りまで征服してそこに城を築いたが、その城の守備を、降伏してキリスト教徒となったサンビア人武将父子に任せた。降伏して洗礼をうけ、キリスト教徒になった者には寛大に、従わず戦う者には容赦なく残忍な死を、というドイツ騎士団の鉄則がここでも貫かれた。
(*8)ケーニヒスベルク(K$00F6nigsberg)は文字通り、「王」(K$00F6nig)の「丘」(Berg)である。当時、その場所はサンビアの人たちによってトゥヴァングステ(Tvangste)と呼ばれていた。これがケーニヒスベルク以前のこの地の名である。
(2016年7月 記)
2016年7月16日 記>級会消息