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  • リトアニア史余談59:ドイツ騎士団に征服されたプロシャ人/武田充司@クラス1955

      現在のポーランド北東部からロシア領の飛び地カリーニングラード州にかけてのバルト海東岸の低地地帯に古代から居住していた西バルト族はプロシャ人と呼ばれていたが、彼らは絶滅した幻のバルト族である。彼らを絶滅に追いやったのは13世紀前半に彼らの土地に入植したドイツ騎士団であった。

      ポーランドのマゾフシェ公コンラートの招聘によって最初に入植したドイツ騎士団はごく小規模なものであったが(*1)、1230年、ヘルマン・バルクに率いられた援軍がやってきた(*2)。彼らは、早速、ヴィスワ川北岸のトルンに城を築き、プロシャ人に対する本格的な布教活動を開始した。これに対して、この地方に住んでいたプロシャ人の首領ペピンは住民を束ねて反抗し、トルンの城を包囲した。しかし、強力なドイツ騎士団の軍事力に屈したペピンは捕らえられ、拷問の末に殺害された(*3)。
      順調に入植地の整備を進めるドイツ騎士団に対して、ポーランドやドイツの各地から異教徒討伐の十字軍活動に参加を希望する騎士たちが応援に駆けつけるようになった。そして、1233年、1万ともいわれる十字軍がヴィスワ川下流地域のプロシャ人部族を討伐し、幾つもの新たな城を築いた。さらに大規模なプロシャ人討伐が、1236年から37年にかけて実施されたが、このとき、ドイツのマイセン伯が大型の軍船を建造し、重武装の兵士を乗せてバルト海からヴィスワ川を遡り、プロシャ人の背後を襲った(*4)。挟み撃ちにあったプロシャ人は壊滅し、辛うじて生き残った者は森の中に逃げ込んだ。しかし、冬になるとドイツ人たちは雪の上の足跡をたどって隠れているプロシャ人を見つけ出し、殺害した。
      こうして、1237年までには、ポーランド北東部に居住するプロシャ人部族の大部分がドイツ騎士団に服従した。そして、この年、ドイツ騎士団はリヴォニアの帯剣騎士団を併合し(*5)、この地域における強力な武装集団としての基礎を固めた。それは、彼らがこの地に入植してから僅か12年という短い期間の出来事であった。
      この当時のポーランドは、ピアスト家一族の者が各地に割拠して細分化され、国家としての統一性を欠いていた(*6)。入植したドイツ騎士団の短期間での成功は、こうしたポーランドの弱体化の結果でもあった。しかし、1241年に起ったモンゴルの東欧侵攻が思わぬ衝撃を与えた(*7)。盛り上がったドイツ騎士団支援の気分は一変した。停滞を余儀なくされたドイツ騎士団の活動を見透かしたかのように、1242年、プロシャ人諸部族が結集してドイツ人支配に対する大規模な反乱を起した。この反乱は容易に鎮圧されず、40年代末まで続いたが、プロシャ人はある程度の自由を獲得して和平に応じた(*8)。
    〔蛇足〕
    (*1)「余談58:ポーランドに招かれたドイツ騎士団」参照。
    (*2)この前年(1229年)、「フリードリヒ2世の十字軍」(これを第6回十字軍と呼ぶこともあり、第5回十字軍の後半と見ることもできる)が、ムスリムのスルタン、マリク・アル・カーミルと休戦合意に達し、平和条約を締結した。これによって、フリードリヒ2世に従って活動していたドイツ騎士団は兵力を削減し、ヘルマン・バルク(Hermann Balk)率いる軍団をポーランドの入植地に移すことができたのだ。なお、この平和条約によって、キリスト教徒は自由にエルサレムを訪れることができるようになった。フリードリヒ2世はイスラム文化に造詣が深く、マリク・アル・カーミルとも親交があった異色の神聖ローマ皇帝であったから、歴代十字軍のような武力に頼るのではなく、こうした外交的手段によって成果をあげることができたのだが、これは中世ヨーロッパ史で特筆されるべき事柄であろう。
    (*3)この地域に住んでいたプロシャ人の部族は、ポメザニア人(Pomesanians)と呼ばれていて、ペピン(Pepin)はこの部族の長老であったのだろう。このポメザニア人は、プロシャ人部族の中で最初にドイツ騎士団に征服された部族である。ヘルマン・バルク(Hermann Balk)は有能な武人であると同時に理性的な人格者であったようで、ポーランド人や、キリスト教徒になったプロシャ人などからも、尊敬されていた。しかし、彼は、キリスト教を受け入れない異教徒に対しては情け容赦なく厳しい態度で臨んだ。これは、当時の布教活動では一般的なやり方で、彼に限ったことではなかった。
    (*4)最初にポーランドに入植したドイツ騎士団の小部隊の指揮官コンラート・フォン・ランズベルク(Konrad von Landsberg)は、ポーランドとは地理的に近いドイツのマイセン近郊の出身であったから、そんな関係でマイセン伯がプロシャ人討伐の十字軍に参加したのであろう。
    (*5)「余談51:サウレの戦い」参照。
    (*6)ポーランドは12世紀後半から権力者が頻繁に交代する衰退期に入り、1202年にミェシコ3世老公が亡くなると、ピアスト家一族による領土の細分化が進んだ。そのため、諸公を束ねて事に当たる強力な君主が不在となり、ドイツ騎士団は殆ど干渉されることなく行動できた。
    (*7)「余談53:モンゴルの東欧侵攻とリトアニア」参照。
    (*8)この反乱は「第1回プロシャ反乱」と呼ばれるが、この反乱が長引いた要因のひとつに、ポーモージェ・グダンスキエ公スヴィエントペウク2世($015Awi$0119tope$0142k Ⅱ)が、プロシャ人とともにドイツ騎士団と戦ったことにあるが、その背景と戦いの経過は複雑なので省く。プロシャ人は戦意が高く、近隣の西バルト族の一派であるヨトヴィンギア人の支援もあって、当初、ドイツ騎士団を圧倒した。しかし、1247年以降、マイセンのハインリヒ3世や、ブランデンブルク辺境伯オット3世など、ドイツ諸侯からの援軍がドイツ騎士団支援に駆けつけたため、形勢は逆転した。結局、1249年2月、プロシャ人はドイツ騎士団と平和条約(「クリストブルク条約」と呼ぶ)を結んで戦いを止めた。この条約によって、ドイツ人支配下のプロシャ人はある程度の生活上の自由を認められたが、同時に、「キリスト教(カトリック)に改宗する権利を持つ」という「暗黙の改宗強制条項」が盛り込まれて、彼らは改宗を余儀なくされた。しかも、平和条約締結後間もない、その年の秋、ドイツ騎士団の小部隊がプロシャ人部族のひとつであるナタンギア人の集落を襲撃した。これが発端となって、ナタンギア人と彼らを支援する他のプロシャ人部族が結集して、撤退するドイツ騎士団の小部隊を包囲した。降伏するしか助かる道のなくなったドイツ人たちは、全員の助命を条件に武器を置いて投降したが、プロシャ人たちは約束を破って無防備のドイツ人を捕らえて惨殺し、復讐した。こうした報復の連鎖が互いの不信と憎悪を増幅し、ドイツ騎士団にプロシャ人討伐の良い口実を与えた。
    (2016年6月 記)
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