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  • リトアニア史余談57:トランシルヴァニアのドイツ騎士団/武田充司@クラス1955

     リトアニアの歴史もバルト族の運命もドイツ騎士団との過酷な戦いを抜きにしては語れないが、そのドイツ騎士団はどうしてあの地にやって来たのだろうか。

     ポーランド北部のヘウムノに入植する前のドイツ騎士団はトランシルヴァニアにいたのだが、それは1211年から1225年までの短い期間であった。
     ハンガリー王アンドラーシュ2世は熱心な十字軍活動の支持者で、自らも十字軍に参加したいと願っていた(*1)。しかし、当時のハンガリー王国の版図は現在のルーマニアのトランシルヴァニア地方にまで広がっていて、この地方がしばしばポロヴェツ人(*2)の襲撃をうけていたため、長期に国を離れることができなかった。そこで、ドイツ騎士団を招聘してトランシルヴァニア地方に入植させ、この地域の防衛に当たらせれば、国王は安心して十字軍に参加できるだろうという案が浮上した(*3)。
     1211年、入植の許可を得たドイツ騎士団の分遣隊(*4)がドイツ人の入植志願農民の一団を引き連れてハンガリーにやって来た。彼らは現在のルーマニアの都市ブラショヴ周辺の土地を与えられて入植した(*5)。戦闘集団として訓練されたドイツ騎士団にとってポロヴェツ人を撃退することなど容易であったから、瞬く間に支配地域を拡大し、要所に城を築いて定住した。
     ところが、彼らが入植するずっと以前の12世紀半ばに、ゲーザ2世の招聘で、現在のルーマニアの都市シビウ周辺にドイツ農民が入植し、定住していた(*6)。この人たちが新たに入植したドイツ騎士団と合流してこの地域の一大勢力に成長しはじめた。こうしたドイツ騎士団の電撃的な活躍と成功を見ていたハンガリー貴族たちは、やがてドイツ騎士団に自分たちの領地を奪われるのではないかと不安になった。事実、ドイツ騎士団はトランシルヴァニア地方にドイツ人のための独立した騎士団国家を建設しようとしていた。
     不安を募らせたハンガリーの貴族たちはドイツ騎士団排斥運動を起し、十字軍活動から帰国した国王に迫った(*7)。この事態に苛立ったドイツ騎士団総長へルマン・フォン・ザルツァは教皇ホノリウス3世に訴えて問題を解決しようとした(*8)。これに対して、狡猾な教皇は、この機会を捉えて教皇領の拡大を企て、ドイツ騎士団が確保したトランシルヴァニアの土地を接収して教皇領とすると宣言した。この理不尽な決定に激怒したハンガリー王アンドラーシュ2世は、直ちに、ドイツ騎士団にハンガリー領内から立ち去るよう命じた。そして、1225年、ドイツ騎士団はベーラ王子率いるハンガリー軍によって追放された(*9)。しかし、捨てる神あれば拾う神ありで、このとき、ポーランドからドイツ騎士団招聘の報せが舞い込んできた。
    〔蛇足〕
    (*1)ハンガリーは当初から十字軍と関係が深い国だった。地図を見れば分かるように、ヨーロッパから陸路で小アジア方面に行くには、ハンガリー平原を通り抜ける必要があった。アンドラーシュ2世(在位1205年~1235年)が参加を希望していたのは、1216年に教皇ホノリウス3世によって宣布された第5回十字軍(1217年9月~1221年8月)で、異色の神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世が不参加で西欧キリスト教世界の不興をかい、これがもとで、教皇ホノリウス3世との確執がはじまったことで知られる十字軍である。
    (*2)ポロヴェツ人はクマンとも呼ばれ、現在のウクライナ南部の草原地帯のドニエストル川下流域を生活圏としていた遊牧民である。彼らは、トランシルヴァニア・アルプスの東端がカルパティア山脈と接する辺りの低い部分(峠)を越えてトランシルヴァニアに侵入し、略奪行為などを働いていた。
    (*3)この提案をしたのはチューリンゲン方伯ヘルマン1世(在位1190年~1217年)である。このとき、ヘルマン1世はアンドラーシュ2世の4歳の娘エルジェーベトを自分の息子(のちのチューリンゲン方伯ルードヴィヒ4世)の嫁にもらう話を進めていた。それとは別に、この前年、チューリンゲン方伯に仕えていた下級貴族の出であるヘルマン・フォン・ザルツァがドイツ騎士団の総長になっていた。この若くて有能な騎士団総長ヘルマン・フォン・ザルツァ(Hermann von Salza:在位1210年~1239年)は、ヘルマン1世の兄で先代の方伯であったルードヴィヒ3世に従って第3回十字軍に参加し、アッコ(Akko)奪還の戦いを経験していた。また、そのあと、ヘルマン1世が方伯となってからは、ヘルマン1世にしたがって再びアッコ(Akko)に行っている。そうした事情が重なって、この提案がヘルマン方伯から出たのであろう。
    (*4)ドイツ騎士団の本務は聖地奪還の十字軍活動であったから、主力軍ではなく小規模の分遣隊がトランシルヴァニアに派遣された。
    (*5)ブラショヴ(Brasov)は、現在はルーマニアの都市であるが、当時は、中欧の大国であったハンガリーに属し、蛇足(2)で述べたポロヴェツ人がハンガリーに侵入する経路上に位置していた。
    (*6)ゲーザ2世(在位1141年~1162年)の招聘によって入植した人たちは、主としてルクセンブルクやモーゼル川流域などからやって来た農民であったが、トランシルヴァニアでは彼らを「ザクセン人」と呼んでいた。このザクセン人が集まって住んでいた場所シビウ(Sibiu)は、ドイツ騎士団が入植したブラショヴ(Brasov)の西方約120kmに位置するトランシルヴァニア・アルプス北麓の都市で、ブラショヴとは比較的近い位置関係にある。
    (*7)アンドラーシュ2世が参加した第5回十字軍は惨めな結果に終り、何の収穫もなく多大な損失だけが目立ったから、帰国した国王の威信は低下し、留守中に不満を募らせていた国内の貴族たちを抑えることができなくなった。貴族たちはドイツ騎士団に与えたすべての特権をとりあげるよう国王に要求した。ドイツ騎士団との板ばさみになった国王は、結局、事態の収拾に失敗した。
    (*8)ドイツ騎士団総長ヘルマン・フォン・ザルツァも、十字軍活動に忙しく、トランシルヴァニアで何が起っているかまで頭が回らなかったため、既に事態は解決困難になっていた。その結果、教皇に直属する騎士団としては、教皇ホノリウス3世の裁断を仰ぐということになった。
    (*9)国王の息子ベーラ王子とは、のちのベーラ4世(在位1235年~1270年)で、モンゴルの東欧侵攻で苦杯を舐めることになるのだが、このときは、不満を抱く反国王派の貴族たちに担がれていた。
    (番外)ドイツ騎士団が引き揚げたあとも、入植したドイツ人農民はトランシルヴァニアに残ったが、1241年のモンゴルの東欧侵攻によって彼らの定住地は荒廃した。この経験から彼らは頑丈な壁で囲まれた「要塞教会」(Kirchenburg)を造った。
    (2016年4月 記)
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