• 最近の記事

  • Multi-Language

  • リトアニア史余談52:ミンダウガスによる統一と国家の形成/武田充司@クラス1955

     リトアニアにバルト族の国家が誕生したのは13世紀中葉である。13世紀初頭にはリトアニアのバルト諸部族は既に有力豪族を中心に互いに連携して行動していた。その状況は1219年のヴォリニアとの平和条約(*1)の締結からも想像される。

     リトアニアに最初のバルト族の国家を建設したミンダウガスは、この平和条約に署名した21人のリトアニア代表の中で筆頭者に続く最初の5人の重要署名者の末席に名を連ねていた。このことは、ミンダウガス(*2)が、兄ダウスプルンガス(*3)とともに、リトアニア中央部を支配する有力一族を代表する人物であったことを示唆している(*4)。
     1236年の「サウレの戦い」の直前にダウスプルンガスが亡くなったことによって(*5)、彼のあとを継いだ2人の息子たち(*6)と彼らの叔父であるミンダウガスとの間で権力闘争が起った。このとき、ジェマイチアの西部を支配していたヴィキンタス(*7)はダウスプルンガスの2人の遺児を庇護してミンダウガスと対立したが(*8)、ヴィキンタスの弟エルドヴィラスは兄の領地とリトアニア中央部との間に位置するジェマイチア東部を支配していたため、両者の衝突を抑止する役割を演じていた(*9)。ところが、1236年にエルドヴィラスが亡くなると、ダウスプルンガスの2人の遺児を担ぐヴィキンタスとミンダウガスの権力闘争は顕在化した。しかし、リトアニアの中央部を支配するミンダウガスは、この頃既にリトアニアの君主と認められるほどの実力者となり、南方のヴォリニア方面や東方のルーシ諸公の地に遠征して勢力を拡大していたから(*10)、ヴィキンタスらも表向きはミンダウガスと共存して機会を窺っていた(*11)。
    そこで、ミンダウガスは、亡き兄の2人の遺児とジェマイチアのヴィキンタスを東方のルーシ諸公討伐遠征軍の指揮官に任命し、彼らを重用するふりをして体よく遠方に追放した。しかし、こうしたミンダウガスのやり方に不信感を募らせたダウスプルンガスの2人の遺児は南方のガリチア・ヴォリニア公ダニーロを頼って抵抗した(*12)。一方、リトアニアのこの内紛に乗じて、リガの司教は2人の兄弟にカトリックへの改宗を勧め、洗礼を受けてキリスト教徒になるならばリトアニア王として認め、戴冠させると約束した(*13)。ジェマイチアに戻っていたヴィキンタスもこれをうけてミンダウガス打倒の兵を挙げた。
     窮したミンダウガスはリガの司教と不仲なリヴォニア騎士団を利用して形勢逆転をはかった(*14)。ミンダウガスは、宿敵リヴォニア騎士団に対して、洗礼を受けてカトリックに改宗するから自分をリトアニア王として認め、今後リトアニアを攻撃せず、必要な支援を与えてくれるよう説得し、同盟関係を構築した。こうして形成逆転に成功したミンダウガスはついにこの地域の統一を成し遂げ、リトアニア王として戴冠した(*15)。
    〔蛇足〕
    (*1)「余談:ヴォリニアとの平和条約」参照。
    (*2)ミンダウガス(Mindaugas)は当時まだ20歳にも達していない若輩であった。
    (*3)ミンダウガスの兄ダウスプルンガス(Dausprungas)はヴォリニアとの平和条約の署名者の中で4番目に署名している。彼ら2人の父はリトアニアの有力者であったと言われているが、名は不明である。
    (*4)兄のダウスプルンガスはリトアニアの中央部を支配していたが、ミンダウガスの支配地域はリトアニアの南東部で、この地域は南方のヴォリニアが侵攻してきた場合の防波堤となっていたから、ミンダウガスは兄の下で国境地帯を防衛する役割を担っていたようだ。
    (*5)ダウスプルンガスは1235年(「サウレの戦い」の前年)、あるいは、その少し前に亡くなったが、死因は不明で、戦死とも暗殺されたとも言われている。「サウレの戦い」については「余談:サウレの戦い」参照。
    (*6)タウトヴィラス(Tautvilas)とエイヴィダス(Eivydas)の兄弟。
    (*7)ヴィキンタス(Vykintas)はダウスプルンガスとミンダウガス兄弟の姉妹のひとりを娶っているので、ミンダウガスにとっては義兄弟であり、タウトヴィラスとエイヴィダスの兄弟にとっては叔母(伯母?)の嫁ぎ先である。
    (*8)ヴィキンタスは正義感や同情だけでダウスプルンガスの2人の遺児を支援したのではなく、彼らを利用してリトアニアを支配しようとしていたらしい。ダウスプルンガスが亡くなった直後の「サウレの戦い」でリトアニア軍勝利の立役者となったのはミンダウガスではなくヴィキンタスであったというのが現代の定説らしいが、このことからも、ヴィキンタスが戦上手の野心家であったことが想像される。
    (*9)エルドヴィラス(Erdvilas)は兄ヴィキンタスと違って、自分の領地がリトアニア中央部に近かったから、ミンダウガスとの対立は避けたかった。結果として、兄がミンダウガスと直接衝突するのを避ける調停者的役割を果たしていた。
    (*10)ミンダウガスは兄ダウスプルンガスが死んだ直後に兄の2人の遺児を追放して兄の領地を奪取したのであろう。それを裏付けるかのように、リヴォニアの年代記の1236年の記述ではミンダウガスを全リトアニアの支配者としている。なお、1219年のヴォリニアとの平和条約締結後のリトアニアは、南方のヴォリニアからの脅威がなくなったためか、北東のルーシの地へ遠征して支配地域を拡大しているが、それはダウスプルンガス存命中のことで、1223年にはノヴゴロド方面に遠征し、1232年頃までにはポロツク、ヴィテブスク、スモレンスクを結ぶ線まで進出していた。しかし、その一方で、1229年にはポーランドに侵攻して失敗し、その隙に北の帯剣騎士団から攻撃されて多大な損害を蒙っている。こうした失敗もあったが、総じて、ダウスプルンガス存命中にリトアニアは支配地域を拡大していた。ミンダウガスは、兄亡きあと、これらの全てを横奪したものと思われる。
    (*11)ジェマイチアのヴィキンタスは、蛇足(7)で述べたように、ダウスプルンガスとミンダウガス兄弟とは義兄弟の間柄であったから、ダウスプルンガス存命中にはダウスプルンガスに臣従していた。したがって、亡き兄に代わって君臨したミンダウガスもヴィキンタスに臣従を迫り、ヴィキンタスもそれを表向きには受け入れていたようだ。
    (*12)体よく追放された彼らも強かにルーシの地に居座って正教徒となり、反撃の準備をしていた。しかし、彼らが正教徒になったことを口実にしてミンダウガスは彼らに討伐軍を差し向けた。そこで、彼らは「自分たちの姉妹の嫁ぎ先である(これには疑問あり)」ガリチア・ヴォリニア公ダニーロ(「余談:ヴォリニアとの平和条約」の蛇足(7)参照)に支援を求めた。
    (*13)この勧誘に乗って兄タウトヴィラスは1250年初めにリガに赴き、司教から洗礼をうけてリトアニア王を名乗った。
    (*14)リガの司教と帯剣騎士団(リヴォニア騎士団の前身)の不仲については「余談:神権国家の出現とリヴォニアの分割」の蛇足(6)参照。
    (*15)「余談:ミンダウガスの戴冠」参照。
    (2015年10月 末記)
    コメントはまだありません »
    Leave a comment

    コメント投稿後は、管理者の承認まで少しお待ち下さい。また、コメント内容によっては掲載を行わない場合もあります。