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  • リトアニア史余談45:キリスト教徒となったリーヴ人カウポ/武田充司@クラス1955

      ラトヴィアの首都リガから北東に50kmほど行ったところにスィグルダという美しい町がある。かつて、この土地にもフィン・ウゴル系の部族であるリーヴ人が住んでいた。

      12世紀末にマインハルトがリヴォニアに入って布教活動をはじめて暫くすると(*1)、テオドリックというシトー会の修道士がこの辺りで布教活動を始めた(*2)。彼は身の危険を感じるような数々の困難に遭遇しながらもそれに耐え、ついに、この辺りのトゥライダ(*3)という土地に住むリーヴ人一族の長老カウポをキリスト教徒にすることに成功した。
      アルベルト司教(*4)が1201年にリガに司教座を移し、リヴォニアでの布教活動を本格化した頃には、テオドリックはアルベルト司教を支える重要な人物になっていたが、1203年秋、テオドリックはキリスト教徒となったカウポを連れてドイツに戻った(*5)。
      ドイツに渡ったカウポは、広くドイツ各地を案内され、ローマにも連れて行かれた。ローマでは丁重なもてなしをうけ、原住民のキリスト教への改宗に尽力している彼の功労が認められ、教皇インノケンティウス3世から立派な黄金の贈り物を与えられたという(*6)。
      1204年9月8日、聖母生誕祭の日、カウポはテオドリックとともにリガにもどってきた。しかし、カウポを待ちうけていたのは故郷のリーヴ人たちからの冷たい仕打ちであった。彼は裏切り者とされ、同胞から迫害される身となっていた。結局、自分の館に帰ることも叶わず、カウポはリガに留まった。
      1206年、リヴォニアのドイツ人に対するリーヴ人の大規模な反乱が起ったが(*7)、このとき、カウポの故郷トゥライダのリーヴ人たちもこの反乱に加わっていた。反乱はダウガワ川上流のポロツクのスラヴ族正教徒も巻き込んで大規模な戦争に発展したが、一旦はドイツ人が勝利し、反乱リーヴ人の指導者アコは戦死し、その首はリガのアルベルト司教のもとに届けられた。そして、生き残ったリーヴ人長老たちはリガに連行されてキリスト教徒になることを強制された。
      しかし、アルベルト司教は表面的に服従したトゥライダのリーヴ人たちを信用していなかったので、バルト族のゼムガレ人(*8)に呼びかけ、彼らを協力者にして北方のリーヴ人に大規模な攻撃を仕掛けた。このとき、敬虔なキリスト教徒としてリガにとどまっていたカウポは一軍を率いてトゥライダに向った。長老カウポの姿を見たリーヴ人たちは狼狽し、砦を放棄して逃げ出した。砦はカウポ自身の手によって焼き払われ、彼の同胞の多くが混乱の中で死んだ(*9)。カウポはこのあとも敬虔なキリスト教徒としてドイツ人のエストニア遠征に参加し、武力によらない布教を目指したが、彼の説得は殆どうけ入れられず、1217年9月22日、エストニア南部の都市ヴィリヤンディ付近の戦いで戦死した(*10)。
    〔蛇足〕
    (*1)「余談:東西キリスト教の出会うところ」参照。
    (*2)テオドリック(Theodric)は、当初、マインハルトとともに活動していたが、アウグスティヌス派のマインハルトとは反りが合わなかったため、マインハルトがユクスキュル(現在のイクシュキレ)司教に叙任された1286年頃に、彼と別れてスィグルダ(Sigulda)辺りにやって来たらしい。
    (*3)トゥライダ(Turaida)は古いリーヴ語で「神の庭」を意味する地名であるが、当時のドイツ人はここをトライデン(Treiden)と呼んでいた。現在はスィグルダ市の一部になっていて、そこにある赤煉瓦造りのトゥライダ城は観光名所である。なお、この辺り一帯はガウヤ国立公園で、北のエストニア国境から流れてくるガウヤ(Gauja)川が削った峡谷を挟んで、北西のトゥライダ地区と南東のスィグルダ地区が対峙している。
    (*4)「余談:リガのアルベルト」参照。
    (*5)テオドリックは帯剣騎士団(「余談:リガのアルベルト」参照)の実質的な創設者といわれ、アルベルト司教の補佐役として重きをなしていたようだが、このときも、帯剣騎士団強化のために、騎士や兵士を募集しようとドイツに行ったのだ。なお、当時は現代より寒かったらしく、冬はリガ湾が凍結して船の出入りが不可能となるため、本国に行く人は、冬の到来前までにリガを離れ、翌年春から秋にかけて帰ってきた。
    (*6)このとき、テオドリックは教皇インノケンティウス3世(在位1198年~1216年)に会って帯剣騎士団への支持を求めたという。また、カウポ(Kaupo or Caupo)が教皇から下賜された黄金の贈り物とは、金貨百枚であったといわれている。
    (*7)「余談:リガのアルベルト」参照。
    (*8)ゼムガレ人はリガの南方地域から現在のリトアニアとの国境地帯を含むラトヴィア中南部に居住していたバルト族の一派である。
    (*9)このあと、「余談:リガのアルベルト」の蛇足(16)で述べたように、再びリーヴ人の反乱が起るが、このときもトゥライダのリーヴ人はドイツ人と戦って敗れ、最終的に屈服したが、彼らはカウポを憎んで、カウポの土地を没収し、彼の全財産を焼き払い、彼の所有する蜜蜂の巣のある木もすべて切り倒したという。リーヴ人が蜜蜂の巣を財産としていたことはバルト族と共通していて興味深い(「余談:蜂蜜酒と蜂蜜紅茶」参照)。なお、先に述べたトゥライダ城は、焼失したカウポの木造砦跡地を利用して建てられたといわれている。
    (*10)カウポはドイツ人の力を借りて、同胞諸部族をキリスト教(カトリック)によって統一し、リヴォニアにリーヴ人の国家を建設しようとしたのだとも言われているが、結果的には、自分の砦も失い、同胞を破滅に追いやった悲劇的英雄となってしまった。現在のラトヴィアで彼はどう評価されているのか気になるところであるが、19世紀の民族主義台頭の時代を経て第一次世界大戦後の民族自決によって独立国となった現代のラトヴィアでは、カウポは不人気なのではなかろうか。
    (2015年6月 記)
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