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  • リトアニア史余談43:リヴォニアではじまった布教活動/武田充司@クラス1955

     バルト海の東岸に北から南へ、エストニア、ラトヴィア、リトアニアというバルト3国が並んでいるが、歴史的には現在のラトヴィアからエストニアにかけての地域はリヴォニアと呼ばれていた。

     このリヴォニアという名は、この地域に昔から住んでいたフィン・ウゴル系の部族であるリーヴ人に由来している(*1)。
     12世紀末には、リヴォニア南部を流れる大河ダウガワ川の下流でドイツ人修道士マインハルトがユクスキュル(現在のイクシュキレ)を拠点として布教活動を始めていたが(*2)、1186年、ブレーメンの大司教がマインハルトをユクスキュルの司教に叙任したことによってバルト地域最初の司教区が出現した。しかし、布教に対するリーヴ人の反抗が根強かったため、教皇ケレスティヌス3世はこの地域に十字軍を派遣したが、その効果はほとんどなかった(*3)。
     マインハルトが1196年に亡くなると、ロックムの大修道院長ベルトルト(*4)がこの困難な事業のあとを継いたが、彼は穏健な人物で、平和のうちに布教活動を成功させようとした。しかし、リーヴ人の襲撃に遭って殺害される寸前にリヴォニアを脱出してドイツに逃げ帰った。そこで教皇は再びリーヴ人討伐の十字軍をリヴォニアに送り、圧倒的な武力でリーヴ人を屈服させたが、ベルトルト司教はこの戦いで命を落した(*5)。生き残ったリーヴ人は洗礼をうけてキリスト教徒になることを誓って助命された(*6)。
     ところが、十字軍が撤退すると直ぐに彼らは自分たちの伝統的信仰に立ち返り、残留した聖職者たちの迫害をはじめる始末で、身の危険を感じた聖職者たちはユクスキュルを離れて下流のホルムに逃れた。しかし、1199年の春、リヴォニアの全リーヴ人が集まって、「リヴォニアにいる全てのキリスト教徒を抹殺する」という決議をした。こうして、リーヴ人と布教に入ったキリスト教徒との対立抗争は激しさを増すばかりだった(*7)。
     亡くなったベルトルトの後任としてブレーメン大司教ハルトヴィヒがユクスキュルの司教に叙任したのは甥のアルベルトであった(*8)。彼は前任者の轍を踏むまいと最初から武力による布教も辞さない覚悟で周到な準備をしたが、自分の計画に横槍が入らないよう、ローマ教皇などに事前に根回しをした(*9)。そして、ドイツのザクセン地方からリヴォニア征服の十字軍兵士を大量に募集し、さらに、オランダからも屈強な兵士数百人を集め、総勢1500人を越える大軍団を編成した。準備万端整った1200年春、アルベルトは、その総勢1500人余の「リヴォニア征服十字軍」を乗せた23艘の大船団を率いて、北ドイツのハンザ同盟都市リューベックを出帆し、途中、ゴトランド島に寄港して多数の商人を乗船させてリヴォニアに向った(*10)。
    〔蛇足〕
    (*1)リヴォニア(Livonia)はフィン・ウゴル系のリーヴ人(Livs)由来の名であるが、ラトヴィア(Latvia)はバルト族の一派であるレット人(Lettgalians)に由来していて、現在のラトヴィアはリトアニアとともにバルト族の言語が話されている世界で唯2つの国である。
    (*2)「余談:東西キリスト教の出会うところ」の蛇足(8)参照。
    (*3)ケレスティヌス3世(在位1191年~1198年)が就位した当時は既に聖地奪還を目指した3人の偉大な君主、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世(バルバロッサ)、フランス王フィリップ2世、イングランド王リチャード1世(獅子心王)による第3回十字軍(1178年7月~1192年9月)の活動が頂点に達していた時期で、教皇のリヴォニア十字軍派遣命令も当時の高揚した気分を反映している。こうした十字軍は、エルサレムの聖地奪還を目指した十字軍と対比して、「北の十字軍」(The Northern Crusades)と総称されている多数の十字軍のひとつである。
    (*4)ロックム(Loccum)は北ドイツのニーダー・ザクセン州にある村の名だが、ここに1163年にシトー会によって創設された大修道院(Loccum Abbey)があり、ベルトルト(Bertold)はここの大修道院長(Abbot)であった。
    (*5)この十字軍の主力はザクセン人で、十字軍側は殆ど戦死者を出さなかったが、ベルトルト司教の乗った馬が逸走して敵陣に突っ込んだためリーヴ人に捕らえられて惨殺され、司教だけが殆ど唯一の犠牲者となった。
    (*6)助命されたリーヴ人100人ほどが翌日ユクスキュル(現在のイクシュキレ)で洗礼をうけ、キリスト教徒として貢税を納めることを誓ったという。
    (*7)このような対立の原因は当時の布教のやり方にあった。キリスト教を理解させることなしに力ずくで、あるいは煉瓦の砦を造ってやるなどの利益誘導によって、原住民を改宗させ、キリスト教徒となった住民には直ちにキリスト教徒としての義務や戒律を守ることを強制した。特に問題だったのは、彼らから十分の一税を徴収したことだった。税といっても、穀物や労働といった物納であったが、入植したドイツ人たちはこれによって生活し、教会を建てたりしたので、この税の徴収はドイツ人にとって必須のものであった。しかし、原住民にとっては、キリスト教の何たるかも理解せず、いきなり洗礼をうけさせられ、税を徴収されたのでは騙し討ちにあった様なものだった。また、キリスト教の教えに従って彼らの伝統的生活習慣が禁止されたことも不満の原因であった。特に、彼らにとって結婚の縁組と結婚式のやり方は、一族の繁栄や部族間の融和をはかる重要な行事であったから、これに干渉されることは我慢できなかった。要するに、これは、布教という仮面を被った武力による植民地獲得政策であった。これに対する原住民の暴力的反発は健康な体に突然侵入してきた異物を直ちに排除しようとする生理的な反応のようなものであった。
    (*8)ブレーメン大司教ハルトヴィヒ(Hartwig)の甥アルベルト(Albert von Buxh$00F6vden)は、このとき未だ34歳でブレーメンのカノン(canon:律修司祭)であった。
    (*9)アルベルトは、リヴォニアを征服して住民をキリスト教徒に改宗させたならば、リヴォニア全土を自分の領地にするつもりであった。そのため、こうした武力による征服計画に横槍が入らないよう、事前に、ローマ教皇インノケンティウス3世、ドイツ王フィリップ、デンマーク王クヌーズ4世、そして、ルンドの大司教などに根回しをしていた。スウェーデン南端のルンド(Lund)には大司教座が置かれていて、バルト海沿岸地域へ進出するにはここの大司教に挨拶する必要があったのだろう。
    (*10)当時、ゴトランド島のヴィスビー(Visby)はバルト海交易の重要な中継基地であったから、そこにはハンザ商人がいた。
    (2015年5月 記)
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