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  • 退職記念講演:アナログ通信/大橋康隆@クラス1955

    1. 1 所長面接

      昭和30年4月日本電気に入社した私は玉川に配属された。 早速、K取締役玉川製造所長の面接があった。入室した時、急用で幹部の方2名が来られ何か話をされていたが、急に所長の大声が飛びその迫力に圧倒された。幹部の方々が退室されると、K所長は私の方を向いて「君のお母さんは私の女房より若い」といわれた。思わず「私の知ったことではありませんが」とお答えしたが、「それもそうじゃ」と頷かれたのでほっとした。今から考えると既に母と妹は岡山から上京して就職し細腕で生計を支えていたので、セルフ・ヘルプを旨とされるK所長はとんでもない奴だと思われたに違いない。しかし、その時私はえらい人は量り知れないところがあるといたく感銘を受けた。
      私は母が18才の時の長男で、小学校に入った時もインパクトを受けた。担任のH先生が母より1才年上で当然独身だった。「あなたの本当の息子さんですか」と聞かれ恥ずかしくて、以後父兄会に来てくれなかった。「先生の話を良く性根を入れて聞いておれば何も心配することはない」と言われその通りにした積りであったが、最初の試験で参った。最後の問題が「ン」で始まる日本語であった。色々頭をひねったが、時間切れとなった。人生で初めて頭をひねった時のことを、所長面接で鮮明に思いだし前途多難を予感した。
    1.2 独創的論文$00A0
      昭和30年頃の実習は丹念であった。玉川には真空管、伝送、無線の3工場があり、技術、生産、検査と現場で鍛えられた。(写真1)機工課では、自分の使う筆箱や文鎮まで制作した。実習が終了して夏に伝送に仮配属になった。早速、当時のY.D技術部長代理の変調器とT.K伝送課長の高調波発生器の論文を読まされた。こんな高級な論文を読むのは初めてで、徹底的に理解できるまで考えた。Dr.Y.Dの変調器の論文では濾波器からの反射の解析がすばらしく、紙切れに図を書きながら徹底的に理解した。$00A0 写真1 工場実習(70%).jpg
    写真1:工場実習
      Dr.T.Kの高調波発生器の論文では、パルスの充電波形の解析と偶数次高調波の解析が独創的で、先人の偉大さの一端に触れることができた。
     その後私はA.K主任の端局班に配属されY.Mさんの下でHi.Kさんと共に搬供装置の開発設計に従事することになった。Y.Mさんは、Dr.T.Kの博士論文をガリ版で書いた方で、記念に戴いたサイン入りの論文を借りて読んでいたら、Dr.T.Kが「それは記念品だからY.Mさんに返しなさい。君には別のをあげよう」と言って1冊戴いた。今でも大事に保存してある。
    1.3 マニュアルを1枚に
      会社で仕事をするようになって、一番困ったのは概ね人間仕様書で何でも周りの人に聞かなければならなかった。DKは伝送検査で、NGは日本電気外購で特殊用語や記号は覚えるのが大変だった。そこで、A2のセクション紙にアンチョコを作り、真空管のソケットの端子配置や、抵抗値、誤差、許容電力、コンデンサ容量、誤差、耐圧、等の記号ルールが一目で判るようにした。現在のマニュアルのはしりである。便利だったので、T.Kさん、T.Yさん、S.Yさん等のベテランもそれを青焼きして活用された。後に周波数配置図も作り、M.Sさんのサジェスチョンでトレースに出し技術文書に登録した。M.Sさんは、変換装置を担当されていたが、各装置ばらばら設計であった集中警報盤の標準化をされ、見えないところで貢献されていた。
      この頃は社員が少なかったため、実験室にはピンポン台が置いてあり、昼休みには碁も打てた。K.Nさん達の観客に囲まれてH.Sさんと碁を楽しんだ。仏のS、鬼の大橋というキャッチフレーズを発明されたが、厳しい仏様であった。(写真2) 2  実験室での囲碁.jpg
    写真2 実験室での囲碁
      熱海保養所に旅行した時は、Y.Mさんと碁を打って戴いた。この時、T.Sさんが、将棋の駒を敵味方すべて同じ方向に向けて互いにとられないように並べて見よと出題された。少し考えると歩が4つ余った。皆で論理的に追及したがどうしても最後に歩が1つ余ってしまう。正解は東北大学の教授がご存じなので手紙を出そうかと言われたが、2~3日待ってもらった。数日後、突然発想の転換で正解を発見した。皆さんも考えてみると面白いだろう。
    1.4 インピーダンス整合の概念
      習慣とは恐ろしいものである。中継器の担当者には、同軸を終端してインピーダンスの整合をとるのは常識であった。ところが端局の担当者はその重要性を認識していなかった。検査から搬供装置の出力レベルより変換装置の入力レベルが高くなると言われた。行ってみたら同軸ケーブルが1KΩで終端され定在波が立っていた。私は学生時代、マイクロの進行波発信器が卒論のーマで、よくスミス・チャートで整合を測定しており、すぐ気が付いた。最近も線を引けばパルス伝送されると安直に考えた同様なミスを耳にするが、歴史は繰り返すものである。その後、NTTで変換装置と搬供装置のインターフェースをNECと富士通で統一することになり、中原へ出かけて交渉した。当時、富士通はドイツのシーメンスと提携しており、同軸は75Ω終端であり、先方に合わせ、ペア線の終端はNECに合わせた。安易に妥協するなとの指示を受けていたが、理由が明白なので帰社後ご承認を戴だいた。
    1.5 徹夜の元凶(漏話と雑音)
      アナログでもデジタルでも、徹夜の大半は漏話と雑音である。その点光は楽である。戦前は6チャンネルが標準であったが、一挙に同軸やマイクロで960チャンネルになったので、技術、製造レベルのギャップを埋めるのは大変であった。先ず配線、実装技術が重要であった。高周波になるので過去の常識を打破せねばならない。幸い、私はマイクロを学生時代にやっていたので、高周波には慣れていた。ソフトの善し悪しは人により100倍も違うと言われるが、配線、実装技術も設計後のトラブルを考えると同様だと思う。同軸方式の他、ペア線のF-24やX-60も設計したが、連続徹夜もした。日本高速通信にいた頃、東海大学にリクルートに行ったが、松前記念館にX-60が展示されているのを見て感激した。
      漏話の改善策としてM.K主任が阻止線輪(ストッピングコイル)を発明された。原理は昔から知られていたが、その効果は絶大であった。ところが生兵法は大怪我のもとである。超群搬供装置の炉波器に適用してもらったが特性が改善されない。炉波器の責任者であったH.T課長の所に関係者が集まり夜10時まで大議論したが、実現不可能な設計要求書を出したと袋叩きにあった。切羽詰まった私は炉波器の実物を持ってきてもらい蓋を開けさせて中を点検した。驚いたことに阻止線輪は直列に挿入するのに、トランスのように並列に挿入されていた。これではロスが増加するので直ぐ判るが、ロスは増えてない。炉波器の仕様書を持ってきてもらい点検したら、手配ミスで通話路用の低周波阻止線輪が挿入されていた。ダブル・ミスで原因が分からなかったのである。何事も原点に立ち返ることが重要だ。翌日、H.T課長がT.K部長に報告されたら「専門家といってもあてにならんのう。」と笑われた。まずいことになったと思ったが、H.T課長はスカッとした方だった。ある日、面白い本があるぞと言って松本清張の「ゼロの焦点」を貸して下さり、一気に読んだが本当に面白かった。数年後直接の上位上司になられたが、生意気なことを言っているとこんなことになるんだぞと大笑いされた。
    1.6 時間が解決してくれる
      搬供装置を担当して種々トラブルがあったが、大きな事件が3回あった。最初は自動切替時間が、瞬断では5msの規格に入っていたが、徐々にレベルが下がると過渡現象で規格割れになった。実用上は大きな問題でないが、納入後かなり経過してから発見された。当時は電磁オッシロで写真を撮っていたのでHi.Kさんと共に爪が黄色になってしまった。しかし、原理的にシステムを変えねば解決しないので1年半の猶予をもらった。
      自動切替スイッチにリードリレーを導入するため、T.K部長、A.K主任のお供をして、三田製造所・交換のI.N部長、Y.H主任、H.K担当を訪ね色々教えて戴いた。I.N部長は岡山一中の大先輩であるが、同窓会名簿を見て、工学博士、文学博士で勤務先は日本電気となっていたので驚いたことがある。紐の結び方の研究で文学博士を授与された大家であり、警視庁の難事件の解決にも貢献されたと聞いている。
      次は電話の声が歪む事を浦和の電話交換嬢が発見した。その敏感さには驚嘆したが原因がなかなか発見できなかった。「大橋君、時間が解決してくれるよ。」とY.Mさんが言ったことを今でも覚えている。ようやく電源から超低周波が漏れ高調波発生器が位相変調を受け、各キャリアも位相変調されていたことが判った。最後は、水晶発振器の恒温槽のスイッチの開閉で位相変調を受けるトラブルであったが、前回のトラブルのお蔭で早く原因を発見できた。この時の水晶発振器の担当はE.KさんとK.Uさんで苦労を共にした。
    1.7 純国産技術(U型開発)
      NECはITTから技術導入し変換装置は24チャンネル実装、富士通はドイツのシーメンスから技術導入して36チャンネル実装であった。昭和31年のある日、T.K部長が「純国産技術で48チャンネル実装を開発したい。君達はついてくるか。」と言われた。私達は大いに感激して直ちにはいと返事した。入社以来こんなに嬉しかったことはない。これまで物真似で歯ぎしりしていたので全力投球した。後で漏れ聞いたことだが、T.K部長はこの時胸に辞表を入れておられたそうである。そのお蔭で懸案の問題点も大胆にクリアできた。
      自動切替方式は当然変更し、更に炉波器からの反射で高調波発生器の動作が不安定になることを、簡単な等価器の挿入で解決した。高調波コイルの材料の微妙さには苦労したが、S.Tさんが机の引き出しに沢山作り貯めして、検査に出る度に取りに来いと言われて解決した。検査のM.Kさんには再三徹夜を共にしてもらったが、昭和32年12月14日にU型搬供装置を無事出荷した。翌年、NTT高崎局で現場試験が行われ、Hi.Kさんと出張した。この時技術局のM.Iさん、NTT通研のY.Sさん、E.Iさんのご指導を戴いた。日曜日にNTTの方々と榛名湖でスケートを楽しんだことがあるが、NECの休電日は木曜日であることを忘れていた。翌日会社から昨日何処にいたのかと電話で追及され、別ルートへ行きましたと返答した。
      昭和33年にMi.Sさん、昭和34年にK.Iさん、昭和35年にK.Oさん、昭和36年にH.Tさんが入社して体制も着々と強化された。後年、私がデジタル通信を担当していたある日、K.O担当から、高調波発生器のダイオードがNTTの承認図で逆になっていたので訂正しましたとの電話があった。勿論、実物は正しく製造されていた。
    1.8 トランジスタ化搬供装置(B型開発)
      初めて搬供装置をトランジスタで設計した時、検査の人が吹っ飛んで来た。トランジスタが全部いかれたのではないかと言うのである。当時のトランジスタは輸入品で1ケが我々の給料よりずっと高かったのである。私もびっくりして検査に急行したが、メイン・ヒューズが入っていなかった。全部ヒューズを抜いてメイン・ヒューズから順々に入れていった。これまで、電源が入ると真空管のヒーターが赤くなるので安心感があたが、トランジスタは真っ暗で生死の様子が判らず恐ろしかった$00A0。昭和34年5月、Mi.SさんとNTT水戸ー日立の現場試験に出張したが、この装置は無事動作してくれた。この時はNTT技術局のS.Fさんが責任者であった。
    1.9 伝送理論研究会
      当時の新知識は外国文献から入手した。コーワン変調器のフランス語の翻訳をやらされた。教わった事はないが、、フランス映画が好きだったので辞書を持っていた。その頃、炉波器の設計理論で大活躍のH.Wさんを中心に伝送理論研究会が週1回残業時間にあり、新技術の紹介や輪講をした。 PCM、電子交換、トランジスタ等大変勉強になった。後に符号通信研究会という名称になったが、昭和35年2月2日には研究所からDr.Sがみえて、デルタ変調の話を伺った。
      昭和35年1月26日、T.K技術部長司会で「若い技術者は語る」-伝送工業部の夢ーという座談会があり、「玉川」に掲載された。ここで同期のS.Iさんが低損失の極細金属線の出現を予言しているが、材料が変わり光ファイバとなって実現されている。残念なことに、私が在宅勤務の話をしたらT.K部長が「それでも会社は給料を払うのかね。」と言われたので、在宅勤務の部分は勤労でカットされてしまった。先走るとこんな事になると痛感した。
      昭和35年7月、初めて電気通信学会の発表で札幌へ出張した。当時は青函連絡船で北海道に渡ったが、H.Wさん、T.Mさん、T.Yさんと一緒であった。ホテルは満杯のため会社の紹介でN医師のお宅に泊めてもらった。
    1.10 フルブライト留学試験
      NECで初めてフルブライト留学したのはM.Sさんである。歓送会の帰途、次は君だなとH.Kさんに冷やかされたが英会話は全く駄目だった。数年遅れで四谷の日米会話学院の夜間に通ったが出欠が厳しくて苦労した。君何年英語を習っているのだと米国人の先生に言われたが、大学の先生でも会話はできないと言ったら良く判ってくれた。学生と勤め人が半々であったが立派な友人達と知り合えたのは幸運であった。この頃、無線のT.Uさんが日仏学院に通っていて代々木の辺りでよく出会ったが、グルノーブル大学に留学された。
      フルブライト留学の語学試験では、耳が弱いので立教大学に早く行って前の座席を確保し、米国人の口を見ながら発音の差異をを判定した。9時から12時迄あったが、黒板に気分が悪くなった人は黙って出て下さいと書いてあった。
    1.11 米国の大学は厳しい
      昭和36年8月5日、初めて航空機に乗りハワイに向かったが天候が悪くウエーキ島に不時着陸した。大部分の日本人はハワイ大学でオリエンテーションを受けたが、男子2名、女子1名が10周年記念映画を撮映するためエール大学に送られた。1ケ月35ケ国45名が一緒に米会話と米国社会の勉強をした。(写真3)時々、昼食時に有名人が会食された。8月16日にはルーズベルト夫人が会食され、我々の質問に応じられた。中共問題について質問したら時間の問題であると丁寧にお答えいただいた。翌年、逝去の報せを新聞で知り、感無量であった。
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    写真3:Yale大学
      9月1日のタレントナトに人気投票があり私はモースト・チャーミングに選ばれた。日本人では初めてであり、男性が選ばれたのも初めてだった。報告することがないので、各カテゴリーに選ばれた名前と国名を報告したところ、「君にしては快挙であった。」とJ.H工場長から返信を戴き恐縮した。
      ハーバード大学に行ってからは大変だった。先ずドイツ語の試験を3時間英語で受けた。辞書は持ち込み自由であったが、私は独和しか持ってなかった。ドイツ語で Erdebahn は判ったが、Orbit の英語を失念して、矢印で絵を描いて理解出来ていることを示し、英語を忘れたと書いた。無事パスしたので助かった。
    写真4 Perkins寮.jpg 写真5 理工系教室.jpg 写真6 Harvard Yard.jpg
    写真4:Perkins寮 写真5:理工系教室 写真6:Harvard Yard
      寮では I.Hさん と同室で、彼は日本語と日本歴史を勉強していた。(写真4)寮に住んでいたので毎日宿題$00A0$00A0をギブ・アンド・テイクでなんとかこなした。米国では宿題と試験を真面目にしないと奨学金を止められる。情報理論等、1学期4コース、年間8コースをフル・コースで取ったが、毎日厳しかった。(写真5)$00A0(写真6)$00A0お蔭で後年、ジュネーブのCCITT に出席した時は、会議の発言をノートに取ることが出来て翌日の作戦計画に大変役に立った。$00A0$00A0$00A0
    1.12 時間の観念
      ハーバード大学に留学中、NEC はハニウェルと提携して研修の方々がチャールス川の対岸にある会社にやってきた。(写真7)私は住友商事のTさんに呼び出され地下鉄の乗り方、食事の仕方等雑学の紹介をした。当時は、NEC から来た
    写真6  チャールス川.jpg
    写真7:チャールス川
    と言ったら何故音楽学校から電気の勉強に来たのかと言われた。当地では NEC は New England Conservatoryの略号であった。
      T.K計算機工場長が昭和37年の夏に来られた。ビジネス・スクール等もご案内して、(写真8)ここでは社長のようなえらい人達も寮に缶詰めでしぼられ、レポートが期限より1分遅れても受け取ってもらえないこと等ご説明した。
      「米国に来て何を一番感心したか。」と聞かれ「それは事務処理能力の差です。時間の観念が全然違います。教授に面会するにも秘書のアポをとる必要があります。」
    写真7 Univ Hall.jpg
    写真8:Univ Hall
    とお答えした。 「日本に帰ったら周囲の人に良く伝えて欲しい。」と言われた。当地の有望な日本人と会いたいとのことで、言語学の研究をしていたS.Kさんをご紹介して昼食を共にした。後で当地の秀才は皆あの様な風体なのかと言われたが、現在、S.Kさんはハーバード大学教授で、世界的な言語学の権威である。昭和45年8月25日、NECの研究所に A.O教授と共に来訪された。
      留学中の上司はT.S主任で、米国出張の際、ハーバード大学に立ち寄られた。また伝送のM.Sさんとカリフォルニア大学留学中のH.Kさんがベル研究所を訪問する途中立ち寄られたが、指導教授のDr.Tの招待で昼食を共にした。留学の終わり頃、東大で卒論の指導を受けたO教授が国際会議の帰途お立ち寄りになり感激した。 
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