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  • リトアニア史余談37:ヴァチカンとの衝突/武田充司@クラス1955

     第1次世界大戦後独立したリトアニアは国境問題でポーランドとの国交を断絶していたが(*1)、この険悪な関係が思わぬところに飛び火した。

     1925年、ローマ教皇庁はポーランドと政教協約を結んだが(*2)、このとき教皇庁はポーランドに5つの司教区を認めた。それらは、グニェズノ、ポズナン、ワルシャワ、リヴォフ、そして、ヴィルノ(*3)であったが、これが教皇庁とリトアニアの政治的衝突の発端となった。
     リトアニア政府はヴィルニュス地域がポーランドに不法占拠されているとして、教皇庁に対して、ヴィルニュス司教区を教皇庁の直轄管区にしてくれるよう要請していた。それにも拘わらず、教皇庁がヴィルニュス司教区をポーランド教会に属する5つの司教区のひとつとしたことは、ヴァチカンがポーランドの主張に従って、ヴィルニュス地域はポーランド領であることを公式に認めたことを意味した。これに激怒したリトアニア政府は抗議の文書を教皇庁に送ったが、ヴァチカンはその強い抗議を無視した。ヴァチカンのこの態度に失望したリトアニア政府は、直ちに、ヴァチカンとの外交関係を断絶した。
     ところが、その翌年(1926年)の4月4日、教皇ピウス11世(*4)は、リトアニアからの要請も提案もないにもかかわらず、一方的に勅書を出してリトアニアにおける管区の再編成を実施し、リトアニアの臨時首都カウナスに大司教座を創設した(*5)。そして、そのカウナス大司教の下に4つの司教区を置いた。それらは、ヴィルカヴィシュキス、パネヴェジス、テルシャイ、および、カイシャドリスの各司教区で、いずれも、1923年3月に画定されたリトアニアの国境内にあり、リトアニアが主張していたヴィルニュス、ジェマイチア(*6)、および、セイニィ(*7)の3つの司教区は含まれていなかった。
     その結果、ヴァチカンに対するリトアニアの人々の感情は益々悪化した。それまで政権の座にあったリトアニア・キリスト教民主党は、この直後の5月に行われた総選挙で第1党の地位を守ったものの(*8)、それまで友党として連立政権に加わっていたリトアニア農民大衆連合に見放され野に下った(*9)
     代わって政権の座についたのはリトアニア農民大衆連合を中心とする左派革新勢力であったが、前政権の腐敗や汚職を糾弾し、過激な改革を性急に実施したことが社会の混乱を招き、この年の12に月起ったクーデターによってあっけなく倒された。こうして、独立後10年もたないうちに、リトアニアの民主的政党政治は機能不全に陥り、右翼独裁政治への道を歩みはじめることになった。
    〔蛇足〕 (*1) 「余談:国境の画定と国交断絶」参照。
    (*2) 政教協約(コンコルダート:concordat)はローマ教皇が各国政府と結ぶ協定である。ポーランドは1921年に制定した憲法でカトリック信仰を諸宗教の中で第1位の重要信仰と位置づけ、カトリック教会の自治を認めていた。これに基づいてポーランド政府は早くからヴァチカンと政教協約を結ぶべく交渉を重ね、1923年には協約草案がまとめられたが、議会では少数派の非カトリック系キリスト教徒や社会主義者などがこの協約に反対した。しかし、1925年2月10日に協約は調印され、3月27日には批准された。この協約では、大学を除く全ての公教育の学校でカトリック教育を行うことが義務付けられているなど、ポーランドがカトリックの国であることを示す内容となっていた。
    (*3) ヴィルノ(Wilno)はヴィルニュス(Vilnius:これはリトアニア語)のポーランド語呼称である。このように、ヴィルニュス地域がポーランド教会のひとつの司教区とされたことがリトアニアの人々には許せなかった。
    (*4) ピウス11世(在位1922年2月~1939年2月)は、第2次世界大戦勃発の直前まで教皇の地位にあって、両大戦間期の長い間、多くの歴史的に重要な、そして、とかく批判の多い仕事をしている。彼はロシア革命も、ポーランド=ソヴィエト戦争も直接体験していたため、全宗教を否定する無神論思想としての共産主義を宗教者として敵視しただけでなく、若いときの厳しい体験によって、筋金入りの強烈な反共主義者となっていた。それ故、ピウス11世はカトリックの国であるポーランドの独立を擁護し、ソ連共産主義の防波堤としてのポーランドを重視した。ムッソリーニやヒトラーに対して彼がとった態度が戦後とかく批判され、ヴァチカンとファシズムの関係が問題視されたが、これも彼が反共産主義の戦いに傾斜し過ぎた結果とも言えよう。また、ヴァチカンが今日のような独立国としての安定した地位を確実にしたのは、1929年2月にムッソリーニとの間で調印された「ラティラノ条約」によるものであったから、こうしたことも当時のヴァチカン、すなわち、ピウス11世のムッソリーニに対する態度に影響していると考えるべきだろう。
    (*5) ピウス11世としては、おそらく、反共の重要な砦としてのポーランドに比して、カトリックの小国リトアニアの存在には、それほど意に介することがなかったのであろう。
    (*6) ジェマイチア(Zemaitija)司教区を要求したのは、武力併合したクライペダ地域(「余談:武力によるクライペダ地域の併合」参照)が念頭にあってのことであろう。
    (*7) セイニィ(Seijny)司教区を要求したのは、ポーランド領になったスヴァウキ地方(「余談:スヴァウキ地方をめぐる争い」参照)の領土権を主張するためであったのだう。セイニィは現在でもポーランド領内の都市である。
    (*8) リトアニア・キリスト教民主党(LKDP)は、カトリック教会の役割を重視し、国語としてのリトアニア語の使用と発展のために、独立以前から戦ってきた人たちの政党で、聖職者や民族主義者の集団であった。したがって、厳しい反ポーランド主義と反共産主義を標榜し、カトリック信仰を国教とすることを主張していた。その一方で、ボリシェヴィキに対抗して、私有財産制を基礎とする穏やかな社会改革と補償を伴う農地改革の推進を唱えていた。しかし、ヴァチカンとの交渉に失敗したことで、国民の大多数を占めるカトリック教徒を失望させ、この総選挙では第1党の地位は守ったものの議席を減らした。
    (*9) リトアニア農民大衆連合(LVLS)は、農民への私有地の再配分と社会保障制度の確立、教育の無料化などを主張する下層農民の利益を代表する大衆政党で、ヴァチカンとの交渉に失敗すると、リトアニア・キリスト教民主党と袂を分かち、選挙戦では激しく対立した。その結果、選挙後もその関係を修復することができなかった。
    (2015年1月記)
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