リトアニア史余談35:武力によるクライペダ地域の併合/武田充司@クラス1955
記>級会消息 (2014年度, class1955, 消息)
バルト海東岸の不凍港クライペダを擁するクライペダ地域を獲得したいリトアニアにとって、1922年3月に英国の調停案を拒否したことは(※1)、武力によるクライペダ地域の併合という危険な賭けへと自らを追い込む結果となった。
リトアニアの人々はそれまでの苦い経験から、国際連盟が口先だけの介入に終始し、小国リトアニアの利益など殆ど意に介せず、ポーランドの強引な既成事実の積み上げを追認してきたことを知っていたから、自分たちも何らかの非常手段に訴えてクライペダ地域を併合して既成事実化してしまえば国際連盟はそれを追認するだろうと考えるようになった(※2)。
1922年11月20日、リトアニア政府は秘密閣議を開き、クライペダ問題を徹底的に討議した結果、クライペダ地域住民による反乱を梃子にクライペダ地域を武力併合することを決定した。そして、直ちに極秘の組織による周到な準備が進められた(※3)。ところが、翌月の18日に連合国がクライペダ問題の早期解決のための新たな委員会を立ち上げたという情報が入ってきた(※4)。そうした委員会による提案がリトアニアに極めて不利なものになることを予想したリトアニア政府は、もはや一刻の猶予も許されないと考え(※5)、翌年(1923年)の1月6日、ついに秘密計画実行の指令が出された。
1923年1月9日、千人余りのリトアニア義勇兵がクライペダ地域に侵入した。これを合図にリトアニア系市民の反乱が起こった。地域のドイツ人は予め了解されていたように抵抗せず事態を傍観した。駐留フランス軍は僅かな勢力であったから直ぐに制圧され、1月15日、クライペダ市を含む全域がリトアニア軍の統制下に置かれた。
しかし、予想されたようにワルシャワとパリから強烈な非難がリトアニア政府に浴びせかけられた(※6)。さらに、ポーランド政府は事態解決のためにポーランド軍を連合国使節団に提供する用意があると言明した(※7)。ところが、これに対抗して赤軍がポーランド国境に結集しているという情報が流れてきた(※8)。
連合国はベルリンとモスクワが背後で策動しているのではないかと考え(※9)、1月29日、クライペダ地域に軍隊を派遣することを検討しはじめたが、結局、クライペダ地域の地位についてリトアニア政府と交渉するということで治まった(※10)。そして、2月17日、連合国はクライペダ地域をリトアニアに引き渡すことを決定し(※11)、翌年(1924年)の5月8日、パリにおいて「クライペダ地域に関するリトアニアと英国、フランス、イタリア、および、日本との協定」(クライペダ協定)が調印され、クライペダ地域は最終的にリトアニアの領土となった。
連合国はベルリンとモスクワが背後で策動しているのではないかと考え(※9)、1月29日、クライペダ地域に軍隊を派遣することを検討しはじめたが、結局、クライペダ地域の地位についてリトアニア政府と交渉するということで治まった(※10)。そして、2月17日、連合国はクライペダ地域をリトアニアに引き渡すことを決定し(※11)、翌年(1924年)の5月8日、パリにおいて「クライペダ地域に関するリトアニアと英国、フランス、イタリア、および、日本との協定」(クライペダ協定)が調印され、クライペダ地域は最終的にリトアニアの領土となった。
〔蛇足〕
(※1)「余談:クライペダ問題」参照。
(※2)リトアニアの人々のこうした考えには、第1次世界大戦後のポーランドとの領土紛争、特に、首都ヴィルニュスを喪失したことが影響している。「余談:ポーランドによる中央リトアニア共和国の併合」など参照。
(※3)ガルヴァナウスカス首相自らこの秘密組織の指揮をとった。そして、現地のリトアニア系住民の力を最大限に利用する緻密な計画に沿って極秘に準備工作が進められた。たとえば、現地にリトアニア友好協会のような組織を作り、それを陰から支援するとか、地元の新聞に親リトアニア的記事をそれとなく頻繁に載せるとか、また、活動の足場を確保するために、クライペダ地域の適当な場所に不動産を買った。こうした活動に多額の資金が投入されたが、その一部は米国のリトアニア系アメリカ人が支援したものであった。こうした努力と並行して、クライペダ地域の支配階級であったドイツ人の協力を得ようと、リトアニア政府は密かにドイツ当局と折衝を続けていた。そして、ついに、現地のドイツ人は抵抗せずにリトアニアへの併合を受け入れるという暗黙の了解をとりつけた。一方、この年(1922年)の11月29日、ソヴィエト外相グリゴリイ・チチェリンがベルリンに向かう途中カウナスに立ち寄り駅頭でガルヴァナウスカス首相と会い、リトアニアのクライペダ地域併合支持を表明した。そして、もしポーランドが介入してきたならば、モスクワはそれを黙過しないだろと述べた。こうしてほぼ準備が整った
1922年12月、ガルヴァナウスカス首相はカウナス駐在のドイツ代表フランツ・オルスハウゼンを招き、クライペダ地域を
武力併合する決意を伝え、リトアニアは現地のドイツ人を敵視するものではないので、彼らに中立を守ってくれるよう改めて要請した。翌日、ベルリンからの指示を受けたフランツ・オルスハウゼンは全てを了解した。
(※4)この委員会は翌月(1923年1月)の10日までに結論を出すことになっていた。
(※5)事実、提案された案では、クライペダ問題をポーランド・リトアニア連邦国家の枠組みの中で解決するか、国際連盟の統治する自治領として独立させるということになっていた。
(※6)数人の駐留フランス兵が犠牲になったことを知ったフランスは、クライペダを砲撃してリトアニア人を殲滅すると言って脅かし、直ちに以前の状態に回復することを要求してきた。英国も抗議してきたが、直接的にリトアニアを脅迫するようなことはなかった。
(※7)連合国側はポーランドのこの申し出を断った。もし、これを受け入れれば、ポーランドが連合国の名を借りて再びリトアニアに軍事介入する恐れがあったからだ。
(※8)実際には赤軍は動員されなかった。これは、モスクワの巧妙な反ポーランド・キャンペーンであった。
(※9)彼らはこの事件を2通りのシナリオで理解しようとしていた。ひとつは、この事件は純粋にリトアニア政府の企んだもの、もうひとつは、モスクワとの連携でなされたものという推測である。英国は後者の場合であることを恐れていた。そして、ポーランドがリトアニアに侵攻する可能性があると考えた。一方、ポーランドは逡巡していた。彼らが強硬な態度を示せばモスクワが乗り出してくると考えた。クライペダ地域がポーランドにとってそれほどの価値があるかを天秤にかけて考えた彼らは、軍事行動でなく外交戦を選択したのだ。
(※10)フランスは軍隊の派遣に積極的だったが、英国が応じなかった。結局、フランスはリトアニアとの交渉開始の条件として、以前の状態への回復を要求したのだが、英国は反対した。
(※11)リトアニアにとって幸いだったのは、リトアニア軍がクライペダ地域に侵攻した直後の1923年1月11日から16日にかけて、フランス軍がベルギー軍とともにルール地方を占領するという事件が起り、西欧の関心がそちらに向けられ、クライペダ地域併合への風当たりが弱められたことだ。また、ベルリンもモスクワも、クライペダ地域をリトアニアに与えておけば、あとで奪うことも容易だと考えていたからリトアニアには協力的だったのだ。(2014年11月記)
(※2)リトアニアの人々のこうした考えには、第1次世界大戦後のポーランドとの領土紛争、特に、首都ヴィルニュスを喪失したことが影響している。「余談:ポーランドによる中央リトアニア共和国の併合」など参照。
(※3)ガルヴァナウスカス首相自らこの秘密組織の指揮をとった。そして、現地のリトアニア系住民の力を最大限に利用する緻密な計画に沿って極秘に準備工作が進められた。たとえば、現地にリトアニア友好協会のような組織を作り、それを陰から支援するとか、地元の新聞に親リトアニア的記事をそれとなく頻繁に載せるとか、また、活動の足場を確保するために、クライペダ地域の適当な場所に不動産を買った。こうした活動に多額の資金が投入されたが、その一部は米国のリトアニア系アメリカ人が支援したものであった。こうした努力と並行して、クライペダ地域の支配階級であったドイツ人の協力を得ようと、リトアニア政府は密かにドイツ当局と折衝を続けていた。そして、ついに、現地のドイツ人は抵抗せずにリトアニアへの併合を受け入れるという暗黙の了解をとりつけた。一方、この年(1922年)の11月29日、ソヴィエト外相グリゴリイ・チチェリンがベルリンに向かう途中カウナスに立ち寄り駅頭でガルヴァナウスカス首相と会い、リトアニアのクライペダ地域併合支持を表明した。そして、もしポーランドが介入してきたならば、モスクワはそれを黙過しないだろと述べた。こうしてほぼ準備が整った
1922年12月、ガルヴァナウスカス首相はカウナス駐在のドイツ代表フランツ・オルスハウゼンを招き、クライペダ地域を
武力併合する決意を伝え、リトアニアは現地のドイツ人を敵視するものではないので、彼らに中立を守ってくれるよう改めて要請した。翌日、ベルリンからの指示を受けたフランツ・オルスハウゼンは全てを了解した。
(※4)この委員会は翌月(1923年1月)の10日までに結論を出すことになっていた。
(※5)事実、提案された案では、クライペダ問題をポーランド・リトアニア連邦国家の枠組みの中で解決するか、国際連盟の統治する自治領として独立させるということになっていた。
(※6)数人の駐留フランス兵が犠牲になったことを知ったフランスは、クライペダを砲撃してリトアニア人を殲滅すると言って脅かし、直ちに以前の状態に回復することを要求してきた。英国も抗議してきたが、直接的にリトアニアを脅迫するようなことはなかった。
(※7)連合国側はポーランドのこの申し出を断った。もし、これを受け入れれば、ポーランドが連合国の名を借りて再びリトアニアに軍事介入する恐れがあったからだ。
(※8)実際には赤軍は動員されなかった。これは、モスクワの巧妙な反ポーランド・キャンペーンであった。
(※9)彼らはこの事件を2通りのシナリオで理解しようとしていた。ひとつは、この事件は純粋にリトアニア政府の企んだもの、もうひとつは、モスクワとの連携でなされたものという推測である。英国は後者の場合であることを恐れていた。そして、ポーランドがリトアニアに侵攻する可能性があると考えた。一方、ポーランドは逡巡していた。彼らが強硬な態度を示せばモスクワが乗り出してくると考えた。クライペダ地域がポーランドにとってそれほどの価値があるかを天秤にかけて考えた彼らは、軍事行動でなく外交戦を選択したのだ。
(※10)フランスは軍隊の派遣に積極的だったが、英国が応じなかった。結局、フランスはリトアニアとの交渉開始の条件として、以前の状態への回復を要求したのだが、英国は反対した。
(※11)リトアニアにとって幸いだったのは、リトアニア軍がクライペダ地域に侵攻した直後の1923年1月11日から16日にかけて、フランス軍がベルギー軍とともにルール地方を占領するという事件が起り、西欧の関心がそちらに向けられ、クライペダ地域併合への風当たりが弱められたことだ。また、ベルリンもモスクワも、クライペダ地域をリトアニアに与えておけば、あとで奪うことも容易だと考えていたからリトアニアには協力的だったのだ。(2014年11月記)
2014年11月16日 記>級会消息