リトアニア史余談33:ポーランドによる中央リトアニア共和国の併合/武田充司@クラス1955
記>級会消息 (2014年度, class1955, 消息)
連邦構想による国際連盟の調停案をリトアニア政府が最終的に拒否したのは1921年12月24日であったが(1)、
それから2週間ほど経った翌年の1月8日、ジェリゴフスキ将軍がヴィルニュス地域に設立したポーランドの傀儡国家「中央リトアニア共和国」(2)において、新しい国会開催のための国会議員選挙が実施された。
$00A0 選挙が実施される地域の境界線はポーランド系住民が最大になるように意図的に定められた(3)。選挙はポーランド系住民によって熱狂的に歓迎されたが(4)、少数派のリトアニア人やベラルーシ人、ユダヤ人の多くは投票をボイコットした(5)。結果は、投票率63.9%で、ポーランド人勢力が圧勝したが、この選挙を監視していた国際連盟の軍事監視団は、選挙に軍が関与し、不正な投票を防止する投票者の確認もなされないなど、多くの悪質な違反があったことを認め、選挙結果は真の民意を反映していない不当なもので、有効とは認められないと総括した。
リトアニア政府も、当然のことながら、この選挙は合法的でなく、選挙結果は無効であるとしたのだが、前年(1921年)の3月に破棄された国際連盟による住民投票計画(6)の復活を希望した。しかし、時すでに遅く、国際連盟は動かなかった。
この選挙が終った直後の1922年1月13日、国際連盟の理事会は、リトアニアにおけるポーランド軍の占領状態を変えさせることができなかった失敗を認め、両国間の紛争の調停打ち切りを決議した。
リトアニア政府も、当然のことながら、この選挙は合法的でなく、選挙結果は無効であるとしたのだが、前年(1921年)の3月に破棄された国際連盟による住民投票計画(6)の復活を希望した。しかし、時すでに遅く、国際連盟は動かなかった。
この選挙が終った直後の1922年1月13日、国際連盟の理事会は、リトアニアにおけるポーランド軍の占領状態を変えさせることができなかった失敗を認め、両国間の紛争の調停打ち切りを決議した。
一方、中央リトアニア共和国の首都ヴィルニュスでは最初の国会が開かれ、2月20日、共和国のポーランドとの合併が決議された。これをうけて、同年(1922年)3月24日、ポーランド議会は中央リトアニア共和国の併合法を承認した(7)。これによってポーランドの一部となったヴィルニュスでは、瞬く間に、市街の通りの名がポーランド風に改名された(8)。
ヴィルニュス地域を併合したポーランドに対して、連合国は公式に抗議して警告を発したが、現実は何も変わらなかった。それでも、リトアニア政府は諦めず、ポーランドとの直接の話合いを求め、さらには、ハーグの国際裁判所に提訴したりしたが、ポーランド政府はリトアニア政府を相手にしなかった。
国際連盟の理事会は、リトアニアの反対にもかかわらず、ポーランドとリトアニアの軍事境界線に設けられていた非武装中立地帯を撤廃して両国の国境線を画定する準備をはじめた(9)。国際連盟による調停の限界を思い知らされた小国リトアニアは、力による既成事実の積み上げに成功したポーランドに対して、為す術もなく屈したのだった。
国際連盟の理事会は、リトアニアの反対にもかかわらず、ポーランドとリトアニアの軍事境界線に設けられていた非武装中立地帯を撤廃して両国の国境線を画定する準備をはじめた(9)。国際連盟による調停の限界を思い知らされた小国リトアニアは、力による既成事実の積み上げに成功したポーランドに対して、為す術もなく屈したのだった。
〔蛇足〕
(1)「余談:連邦構想による国際連盟の調停」参照。
(2)「余談:1920年10月9日」参照。
(3)たとえば、リトアニア人の多いドゥルスキニンカイ(「余談:ユニークな野外博物館」参照)は選挙実施地域から除外されたが、それにもかかわらず、ポーランド領とされ、両大戦間の時期にポーランドの保養地として栄えた。こうした恣意的な選挙実施区域の設定で、選挙区内の総人口に占めるリトアニア人の割合は僅か7.2%にとどまり、ユダヤ人とベラルーシ人が、それぞれ、11.5%と8.8%であった。残りの72.5%の大部分がポーランド人、あるいは、ポーランド系住民であった。
(4)国会議員に立候補できる資格として、25歳以上で小学校以上の教育をうけた者という条件が定められたが、そのほかに、ポーランド語が堪能であること、という条件が付け加えられていた。その結果、立候補者は全てポーランドの政党やポーランド人グループの人たちであった。
(5)表面上は言論出版の自由を認めていたが、選挙に反対する活動を行った者は1年以下の禁固刑に処せられた。これは、選挙のボイコット運動をするリトアニア人を取り締るためであった。ユダヤ人の中には、リトアニア人とポーランド人の政争に巻き込まれるのを恐れて、中立の立場を表明するために棄権した人も多かった。たとえば、ユダヤ人の多い首都ヴィルニュスのユダヤ人投票率は僅か1.4%であった。
(1)「余談:連邦構想による国際連盟の調停」参照。
(2)「余談:1920年10月9日」参照。
(3)たとえば、リトアニア人の多いドゥルスキニンカイ(「余談:ユニークな野外博物館」参照)は選挙実施地域から除外されたが、それにもかかわらず、ポーランド領とされ、両大戦間の時期にポーランドの保養地として栄えた。こうした恣意的な選挙実施区域の設定で、選挙区内の総人口に占めるリトアニア人の割合は僅か7.2%にとどまり、ユダヤ人とベラルーシ人が、それぞれ、11.5%と8.8%であった。残りの72.5%の大部分がポーランド人、あるいは、ポーランド系住民であった。
(4)国会議員に立候補できる資格として、25歳以上で小学校以上の教育をうけた者という条件が定められたが、そのほかに、ポーランド語が堪能であること、という条件が付け加えられていた。その結果、立候補者は全てポーランドの政党やポーランド人グループの人たちであった。
(5)表面上は言論出版の自由を認めていたが、選挙に反対する活動を行った者は1年以下の禁固刑に処せられた。これは、選挙のボイコット運動をするリトアニア人を取り締るためであった。ユダヤ人の中には、リトアニア人とポーランド人の政争に巻き込まれるのを恐れて、中立の立場を表明するために棄権した人も多かった。たとえば、ユダヤ人の多い首都ヴィルニュスのユダヤ人投票率は僅か1.4%であった。
(6)「余談:実施されなかった住民投票」参照。
(7)このとき、ポーランド議会は「中央リトアニア共和国」(すなわち、ヴィルニュス地域)を自治領とする案について討議したが、それは連合国の反応を意識したもので、真剣な議論はなされなかったという。その結果、ヴィルニュス地域は“ziemia wilenska”(Wilno Landという意味のポーランド語)として正式にポーランドの一部となった。その後、1926年1月20日に、この“ziemia wilenska”は“wojewodztwo wilenskie”(これは英語でWilno Voivodeshipと訳され、日本語では「ヴィルニュス州」の意味)となって、ポーランドの州のひとつに格上げされた。なお、ヴィルノ(Wilno)とは、ポーランド支配時代のヴィルニュス(Vilnius)のポーランド語による呼び方である。
(8)ポーランドでは、前もって、市の街路名をどう変更するかについて詳細なリストを作成して準備していたから、この街路名のポーランド化は極めて迅速に実施された。この一事からも、彼らがヴィルニュス地域の併合を当初から計画していたことがわかる。
(9)実際に、ポーランドとリトアニアの間の国境が国際連盟によって画定されたのは、この時点からほぼ1年後の1923年3月である。
(7)このとき、ポーランド議会は「中央リトアニア共和国」(すなわち、ヴィルニュス地域)を自治領とする案について討議したが、それは連合国の反応を意識したもので、真剣な議論はなされなかったという。その結果、ヴィルニュス地域は“ziemia wilenska”(Wilno Landという意味のポーランド語)として正式にポーランドの一部となった。その後、1926年1月20日に、この“ziemia wilenska”は“wojewodztwo wilenskie”(これは英語でWilno Voivodeshipと訳され、日本語では「ヴィルニュス州」の意味)となって、ポーランドの州のひとつに格上げされた。なお、ヴィルノ(Wilno)とは、ポーランド支配時代のヴィルニュス(Vilnius)のポーランド語による呼び方である。
(8)ポーランドでは、前もって、市の街路名をどう変更するかについて詳細なリストを作成して準備していたから、この街路名のポーランド化は極めて迅速に実施された。この一事からも、彼らがヴィルニュス地域の併合を当初から計画していたことがわかる。
(9)実際に、ポーランドとリトアニアの間の国境が国際連盟によって画定されたのは、この時点からほぼ1年後の1923年3月である。
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2014年9月16日 記>級会消息