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  • モンテネグロの旅/大橋康隆@クラス1955

    7月5日朝、モンテネグロの首都ポドゴリツァのホテルをバスで出発。

    国際空港を持つモンテネグロの首都であるが、第二次世界大戦で町の多くが破壊され、古い建物は少ない。博物館、美術館がある程度だ。バスに乗って南西に進むこと1時間30分、途中で古都ツェティニェを通過して観光地ブドヴァに到着した。
    ブドヴァの港(写真1)からは600mの砂浜スロヴェンスカ・ビーチが続いており、観光客で賑わっていた。立派なホテルや別荘が林立しているが、クロアチアのドブロヴニクに別荘を持てない富裕層が当地に進出しているそうだ。特にロシアで成功した富裕層の進出が著しく、別荘だけでなく観光業にも励んでいる。聖サヴァ教会、聖三位一体教会、聖ヨハネ教会(写真2)、城塞、を見物後、旧市街の迷路(写真3)を散策した。
    写真1 ブドヴァの港.jpg$00A0 写真2 聖ヨハネ教会.jpg 写真3 旧市街の迷路.jpg$00A0
    $00A0写真1
       ブドヴァの港
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       聖ヨハネ協会
    $00A0写真3
       旧市街の迷路
    $00A0写真4 時計塔.jpg $00A0写真5 大聖堂.jpg $00A0写真6 海洋博物館.jpg
    $00A0写真4
       時計塔
    $00A0写真5
       大聖堂
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       海洋博物館
    ブドヴァ観光後、バスに30分乗って北に進みコトルに到着した。時計塔(写真4)、聖トリプン大聖堂(写真5)、海洋博物館(写真6)、聖ルカ教会(写真7)、聖ニコラ教会、ヴェネツィア商人の館などを観光した。港には豪華客船が停泊していた。複雑に入り込んだ湾の奥に港はあるが、水深はふかいようだ。海岸線と険しい山々に城壁が構築されており、要塞都市として繁栄し、貿易による富の蓄積で立派な建築物が多い。そもそもモンテネグロと言う国名は、アドリア海から眺めると、海岸の背後の山々の樹木が黒く見えたことに由来するらしい。
    写真7 聖ルカ教会.jpg$00A0 写真8 プラツァ通り.jpg$00A0 写真9 ドブロヴニクの港.jpg$00A0
    写真7
       聖ルカ教会$00A0
    $00A0写真8
       プラツァ通り
    $00A0写真9
       ドブロヴニクの港
    コトル観光後、バスで2時間北西に進み、クロアチアのドブロヴニクに到着した。自由時間には、スルジ山頂へロープウエイで登るグループと旧市街を散策するグループに分かれた。私は既に山頂は訪れているので、旧市街を散策しプラツァ通り(写真8)や港(写真9)を眺めた。3年前には旧市街を囲む城壁を、炎天下に耐えて一周したことを思い出し、元気だったなーと痛感した。今回は記念に絵葉書や写真集などの新資料を入手した。再びバスに乗って北進すること3時間、国境を越えてボスニア・ヘルツェゴビナのモスタルのホテルに到着した。幸運にも結婚披露宴に再度遭遇し、玄関に到着した新婚カップルの素晴らしい写真を撮影する機会を得た。当地の女性はすらりとした長身の美人が多く、女優さんかファッションモデルさんではないかと思ってしまう。
    モンテネグロの面積は福島県ほどで人口は62万人。通貨はユーロ。2006年にモンテネグロ共和国として独立宣言。2007年に新憲法を制定して、国名をモンテネグロと改めた。日本も独立を承認して、無償資金協力、技術協力を行ってきた。2010年にEU加盟候補国となった。昔は6~7世紀にモンテネグロ人などスラブ系民族がバルカン半島に定住。11世紀にセルビア王国の一部となり、15 世紀にオスマントルコの領域に入る。1878年モンテネグロ公国として独立が承認された。1918年第一次大戦後、セルビアに編入され、ユーゴスラビア王国の一部となる。1941年、第二次世界大戦中イタリアが占領、ユーゴスラビア王国は消滅。1944年、ユーゴスラビア社会主義共和国の1共和国となった。モンテネグロは、このように複雑な歴史を辿りながらも、恵まれた観光地として活気をとりもどしつつある。
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