• 最近の記事

  • Multi-Language

  • リトアニア史余談31:実施されなかった住民投票/武田充司@クラス1955

     リトアニア、ポーランド両政府が、国際連盟の提案に従って住民投票による紛争地域の帰属問題解決を受諾した直後の1920年11月17日に、ポーランド政府が表向きには離反者としているジェリゴフスキ将軍が、カウナスのリトアニア政府を崩壊させる目的で大規模な軍事作戦を開始した(※1)。

    しかし、独立を失うか否かの命運をかけたリトアニア軍の必死の反撃にあって、早くも11月19日にはカウナス攻略作戦の見通しが怪しくなると、国際連盟の強い圧力をうけたジェリゴフスキ将軍は、国際連盟の休戦監視委員会の下で休戦することを提案してきた(※2)。リトアニアもこの提案をうけ入れ、11月21日、休戦協定が調印された(※3)。
     1920年11月27日、リトアニアの臨時首都カウナスにおいて、リトアニアとポーランドの永続的な和平実現を目指して、本格的な交渉が国際連盟の休戦監視委員会のもとで開催された。その席で、リトアニア政府は、ジェリゴフスキ将軍を不法な侵略者として、彼との直接交渉を拒否した。その結果、ポーランド政府代表が仲介者として出席することになった。
     そこで、リトアニア政府は、この年の10月7日に調印された「スヴァウキ条約」(※4)の線に沿って交渉を再開することを求めた。ところが、ポーランド側は、ジェリゴフスキ将軍が占領している地域を含め、如何なる地域からの撤退にも応じないという態度を貫いた。当然のことながら、交渉はまとまらず、ポーランドとの国境線画定という目的は達せられなかった。そして、11月29日、以下のような合意のみが成立した。すなわち、両国間の敵対関係は11月30日をもって終わり、幅6kmの非武装中立地帯によって両国の軍隊を隔て(※5)、捕虜の交換を行うというものであった。
     ポーランド側は、新たに合意されたこの条件を以前締結された「スヴァウキ条約」に取って代わるものだと主張して、「スヴァウキ条約」を反故にしてしまった。その後、この時設けられた非武装中立地帯は1923年3月まで維持された。
     このあと、国際連盟の裁定によって合意された紛争地域の帰属問題解決のための住民投票計画(※6)についても、リトアニアとポーランド両国の協力が得られない状況が続いたため、国際連盟は、翌年(1921年)の3月3日、住民投票実施に向けての努力を打ち切った。そして、国際連盟は両国の直接交渉を監視するという消極的な立場に後退した。
     国際連盟による住民投票計画が放棄された原因は、幾つか挙げられているが(※7)、先ず、どの地域が住民投票の対象になるのか、それが問題であった。それにもまして、住民投票対象地域からジェリゴフスキ将軍の軍隊を撤退させることなど所詮無理だったのだ。
    〔蛇足〕
    (※1)「余談:1920年10月9日」の最後の部分参照。
    (※2)国際連盟は、ジェリゴフスキ将軍が11月17日に大規模なカウナス包囲作戦を開始する前に、彼の侵略行為を非難し、休戦と撤退を要求していたのだが、この時になって、ジェリゴフスキ将軍が休戦提案をしてきたのは、彼のカウナス包囲作戦が思うように進まず、むしろ守勢にまわり、下手をすると既に占領している地域までリトアニア軍に奪還される恐れが生じたためであった。このとき、もし、リトアニア側が、ジェリゴフスキ将軍の休戦提案を無視して戦闘を続行していれば、ヴィルニュス奪還もあり得たといわれている。しかし、そうなれば、リトアニアは休戦を望まなかったと非難され、ポーランドとの本格的戦争に巻き込まれ、最後に全てを失ったかも知れない。
    (※3)休戦協定が成立したあと、カウナス北方40数kmのケダイニャイ(Kedainiai)まで進出していたジェリゴフスキ将軍の一部の部隊は孤立したため、撤退途中でリトアニア軍に報復攻撃されることを恐れて、そこから北北東に数10kmも迂回して東部へ撤退して行った。それでも、彼らはヴィルニュス地域を依然として占領し続けた。
    (※4)「余談:1920年10月9日」の蛇足(※2)参照。
    (※5)これは、ジェリゴフスキ将軍の不当な侵略行為までも黙認する、現状追認であった。
    (※6)この住民投票計画は国際連盟によって提案され、1920年11月7日に両国によって合意されていた。「余談:1920年10月9日」の蛇足(※10)参照。
    (※7)この住民投票によって紛争地域の帰属を決めるという考え方は、リトアニアにとっては、ジェリゴフスキ将軍のヴィルニュス不法占領を認めることを意味するので、全く許し難いことであった。しかし、両国とも、これ以外に解決方法を見出せない国際連盟の圧力に屈して、やむなく同意したのだった。リトアニアは、住民投票をすれば自分たちに不利な結果が生じるだろうと予測し、住民投票を恐れていた。その理由は、当時の首都ヴィルニュス地区にはポーランド人居住者が多く、彼らの影響力と彼らを非合法的に支援するジェリゴフスキ軍の干渉によって選挙結果は決まってしまうであろうと思われた。しかし、面白いことに、当時の国際的な専門家の中には、ヴィルニュス地区にはユダヤ人やベラルーシ人も多く、彼らの多くはリトアニアの統治を望んでいたことから、住民投票は必ずしもリトアニアに不利とは限らないと考える人もいた。しかし、これは「楽観的に過ぎる予想」であったかも知れない。一方、ヴィルニュス地区を占領していたポーランド側は、当然のことながら、現状維持が得策と考えていた。現状維持が長引けば、やがて国際連盟も問題解決に疲れ、力の弱いリトアニアも諦めて、結局、ポーランドの思う通りになるという読みがあった。また、国際連盟としては、どの地域までを限定して住民投票の対象とするか、ポーランドとリトアニアの相反する思惑を考慮すると、この線引きは厄介な問題だった。さらには、住民投票日の十分前までに、ジェリゴフスキ将軍の軍隊を占領地域から撤退させて、投票の中立性と公平性を確保することの困難さだ。もし、それを確実に実現しようとすれば、主要連合国による軍事介入が必要となっただろうが、国際連盟が、リトアニアの如き小国の利益のために、そうした行動をとることは考え難かった。最後に、もうひつと重要な要素として、モスクワのボリシェヴィキ政権の動向があった。彼らは、住民投票の監視団としてヴィルニュス地域に国際連盟の軍隊が入ってくることに強い警戒感を示し、住民投票の受け入れは、中立を守るというリトアニア政府の約束に反するとして、リトアニアに圧力をかけていた。こうした幾つかの要因が絡み合って、結局、住民投票は実施されなかった。
        (2014年7月記)
    コメントはまだありません »
    Leave a comment

    コメント投稿後は、管理者の承認まで少しお待ち下さい。また、コメント内容によっては掲載を行わない場合もあります。