リトアニア史余談30:1920年10月9日/武田充司@クラス1955
記>級会消息 (2014年度, class1955, 消息)
スヴァウキ地方をめぐって1920年8月末に始まったリトアニアとポーランドの戦いは9月半ばに休戦し、和平交渉に入ったのだが、国境画定問題で議論は空転していた(※1)。
しかし、10月4日に国際連盟の停戦監視団がスヴァウキにやって来たことによって交渉は促進され、10月7日の深夜、交渉は妥結し、条約は調印された(※2)。
ところが、この条約が調印されて僅か数時間後の10月8日未明、ポーランド軍のジェリゴフスキ将軍が、リダ(※3)に駐屯していた総勢1万4千の第1リトアニア・ベラルーシ歩兵師団を率いて、リトアニアの首都ヴィルニュスに向かって進撃を開始した。ジェリゴフスキ将軍のこの軍事行動はリトアニアにとって全く思いがけないものであった。ヴィルニュス防衛軍の指揮官シルヴェストラス・ジュカウスカス(※4)は直ちにヴィルニュス市民に避難命令を出し、市の管理を国際連盟の駐在官に任せて撤退した。
その翌日(10月9日)の夕方、ポーランド軍がヴィルニュスに入ってきた。国際連盟の駐在官は、権限を無視されたため、身の危険を感じてヴィルニュスを去った。満を持して電撃作戦を展開するポーランド軍は、瞬く間にヴィルニュスとその周辺地域を占領し(※5)、10月15日、ヴィルニュス西方に結集した軍団がリトアニアの臨時首都カウナスに向かって進撃する気配をみせた。
カウナスのリトアニア政府は動揺し、一時パニック状態になり、カウナスからの撤退準備さえはじめた(※6)。しかし、10月11日、リトアニア政府は国際連盟にジェリゴフスキ将軍の行動を非難し、仲裁を要請した。これに応えて、10月14日、国際連盟はポーランド軍の侵略行為を非難する覚書を発表し、ポーランド軍に即時撤退を求めた(※7)。しかし、その間の10月12日、ジェリゴフスキ将軍はヴィルニュスを首都とする「中央リトアニア共和国」の建国を宣言し、自ら国家元首となった(※8)。
一方、国際連盟の事情聴取において、ポーランド代表はポーランド・リトアニア間には調停されるべき紛争は存在せず、今回の事件はジェリゴフスキ将軍の独断によって惹き起こされたもので、ポーランド政府は関与していないと強弁した(※9)。しかし、国際連盟は紛争地域において住民投票を実施して帰属問題を解決するべきであるという調停案を両国に提示した。11月6日と7日の両日、リトアニアとポーランドは相次いでこの提案をうけ入れた(※10)。ところが、その直後の11月17日、ジェリゴフスキ将軍は、リトアニア政府を崩壊させリトアニアの独立を無効にするために、リトアニア軍の3倍にも及ぶ兵力をもって北東方向からカウナスを包囲する大規模な軍事作戦を開始した。
〔蛇足〕
(※1)「余談:スヴァウキ地方をめぐる争い」参照。
(※2)この条約は「スヴァウキ条約」と呼ばれているが、その内容は曖昧なものであった。すなわち、合意された停戦地帯はリトアニア南部のスヴァウキ地方から東方に伸びて、ワルシャワからグロドノ、ヴィルニュスを経てペテルブルク(当時はペトログラードと改称されていたが)に至る鉄道線路辺りまであった。戦闘が行われていたのがこの地域であったから、これは一見合理的に見えたが、ヴィルニュス南方地帯に触れられていないことがポーランドには好都合であった。一方、リトアニア側はこの東西の停戦ラインが更に東に延長されれば、当然、ヴィルニュスはリトアニア領となるはずと、自分に都合のよいように考えていた。両者ともヴィルニュス地域の帰属問題こそ最重要事項と思っていたが、交渉では互いに核心に触れることを避けていた。
(※3)リダ(Lida)はヴィルニュス南方約90kmに位置する現在のベラルーシの都市である。
(※4)シルヴェストラス・ジュカウスカス(Silvestras Zukauskas)は、10月6日にヴィルニュス防衛の司令官に就任したばかりで、配下の部隊も僅かであったから撤退以外に選択肢はなかった。
(※5)この時、ポーランド軍は少なくとも3方面で軍事行動を起し、電撃的に首都ヴィルニュスとその周辺の広い地域を制圧している。したがって、ジェリゴフスキ将軍は事前に周到な作戦計画を練っていたものと思われる。
(※6)この時、リトアニア軍の主力は未だスヴァウキ地方にいたため、ヴィルニュスやカウナスを防衛する軍隊は限られて いた。さらに、グロドノ方面からヴィルニュスに向かう鉄道沿線地域がポーランド軍に制圧されていたため、スヴァウキにいる軍を迅速に移動させる手段がない状況であったから、カウナスの政府は絶望的になったのであろう。
(※7)この頃、ロンドンでは、ポーランドを国際連盟から除名すべきだという激しい議論が巻き起こっていた。なお、この当時の国際連盟の理事会の議長は、レオン・ブルジョワ(Leon Bourgeois)で、彼は「強い」国際連盟を望み、国際連盟の力による平和維持を追及した人物と言われ、この年(1920年)にノーベル平和賞を受賞している。
(※8)ルチアン・ジェリゴフスキ(Lucjan Zeligowski)将軍はポーランド系リトアニア人で、ヴィルニュスの南東約50kmにある現在のベラルーシの都市アシュミャニ(Ashmjany)の出身である。この辺りは歴史的リトアニアの中核地域であったから、彼がこの地域に格別の思いを抱いていたかも知れない。しかし、この時の彼の一連の軍事行動から、彼は国を捨てた離反者(defector)と見られるが、内実はそうではなく、彼は当時のポーランド国家元首ユゼフ・ピウスツキ(Jozef Pilsudski)と通じて、互いに暗黙の了解があったとみられる。
(※9)ポーランド政府は、ジェリゴフスキ軍は反乱軍であり、政府は彼の行動を支持しないと言明する一方で、密かにジェリゴフスキ軍に武器弾薬などを供給していた。さらに、他のポーランド軍も彼に協力して行動を起していた。ジェリゴフスキ将軍も、こうしたポーランド政府の態度に平仄を合わせるように、自分は「スヴァウキ条約」(蛇足(※2)参照)に反対であり、地域のポーランド人の自決権を守るために立ち上がったのだとする書簡を軍司令部に送っていた。ポーランド政府は、この時、ダンツィヒ自由都市や上シレジア問題を抱えていたから、リトアニアとの争いを表面化させて国際連盟との関係を悪化させたくなかった。
(※10)これに先立つ10月12日、ポーランドとソヴィエト政府は「ポーランド=ソヴィエト戦争」(「余談:赤軍の再侵入」の蛇足(※5)参照)を終らせる休戦に合意していた。その結果、この地域に平和がもどっていた。国際連盟はそうした状況変化を考慮して住民投票を提案したのであろう。しかし、リトアニアもポーランドも、それぞれ全く別の理由から住民投票には反対したかったのだが、国際連盟の圧力に屈して受け入れた形となった。
(※1)「余談:スヴァウキ地方をめぐる争い」参照。
(※2)この条約は「スヴァウキ条約」と呼ばれているが、その内容は曖昧なものであった。すなわち、合意された停戦地帯はリトアニア南部のスヴァウキ地方から東方に伸びて、ワルシャワからグロドノ、ヴィルニュスを経てペテルブルク(当時はペトログラードと改称されていたが)に至る鉄道線路辺りまであった。戦闘が行われていたのがこの地域であったから、これは一見合理的に見えたが、ヴィルニュス南方地帯に触れられていないことがポーランドには好都合であった。一方、リトアニア側はこの東西の停戦ラインが更に東に延長されれば、当然、ヴィルニュスはリトアニア領となるはずと、自分に都合のよいように考えていた。両者ともヴィルニュス地域の帰属問題こそ最重要事項と思っていたが、交渉では互いに核心に触れることを避けていた。
(※3)リダ(Lida)はヴィルニュス南方約90kmに位置する現在のベラルーシの都市である。
(※4)シルヴェストラス・ジュカウスカス(Silvestras Zukauskas)は、10月6日にヴィルニュス防衛の司令官に就任したばかりで、配下の部隊も僅かであったから撤退以外に選択肢はなかった。
(※5)この時、ポーランド軍は少なくとも3方面で軍事行動を起し、電撃的に首都ヴィルニュスとその周辺の広い地域を制圧している。したがって、ジェリゴフスキ将軍は事前に周到な作戦計画を練っていたものと思われる。
(※6)この時、リトアニア軍の主力は未だスヴァウキ地方にいたため、ヴィルニュスやカウナスを防衛する軍隊は限られて いた。さらに、グロドノ方面からヴィルニュスに向かう鉄道沿線地域がポーランド軍に制圧されていたため、スヴァウキにいる軍を迅速に移動させる手段がない状況であったから、カウナスの政府は絶望的になったのであろう。
(※7)この頃、ロンドンでは、ポーランドを国際連盟から除名すべきだという激しい議論が巻き起こっていた。なお、この当時の国際連盟の理事会の議長は、レオン・ブルジョワ(Leon Bourgeois)で、彼は「強い」国際連盟を望み、国際連盟の力による平和維持を追及した人物と言われ、この年(1920年)にノーベル平和賞を受賞している。
(※8)ルチアン・ジェリゴフスキ(Lucjan Zeligowski)将軍はポーランド系リトアニア人で、ヴィルニュスの南東約50kmにある現在のベラルーシの都市アシュミャニ(Ashmjany)の出身である。この辺りは歴史的リトアニアの中核地域であったから、彼がこの地域に格別の思いを抱いていたかも知れない。しかし、この時の彼の一連の軍事行動から、彼は国を捨てた離反者(defector)と見られるが、内実はそうではなく、彼は当時のポーランド国家元首ユゼフ・ピウスツキ(Jozef Pilsudski)と通じて、互いに暗黙の了解があったとみられる。
(※9)ポーランド政府は、ジェリゴフスキ軍は反乱軍であり、政府は彼の行動を支持しないと言明する一方で、密かにジェリゴフスキ軍に武器弾薬などを供給していた。さらに、他のポーランド軍も彼に協力して行動を起していた。ジェリゴフスキ将軍も、こうしたポーランド政府の態度に平仄を合わせるように、自分は「スヴァウキ条約」(蛇足(※2)参照)に反対であり、地域のポーランド人の自決権を守るために立ち上がったのだとする書簡を軍司令部に送っていた。ポーランド政府は、この時、ダンツィヒ自由都市や上シレジア問題を抱えていたから、リトアニアとの争いを表面化させて国際連盟との関係を悪化させたくなかった。
(※10)これに先立つ10月12日、ポーランドとソヴィエト政府は「ポーランド=ソヴィエト戦争」(「余談:赤軍の再侵入」の蛇足(※5)参照)を終らせる休戦に合意していた。その結果、この地域に平和がもどっていた。国際連盟はそうした状況変化を考慮して住民投票を提案したのであろう。しかし、リトアニアもポーランドも、それぞれ全く別の理由から住民投票には反対したかったのだが、国際連盟の圧力に屈して受け入れた形となった。
(2014年6月記)
2014年6月16日 記>級会消息