リトアニア史余談28:赤軍の再侵入/武田充司@クラス1955
記>級会消息 (2014年度, class1955, 消息)
1920年になると、前年の秋に停戦して和平交渉を提案してきたソヴィエト政府(1)との話合いがモスクワではじまった(2)。
このとき、リトアニア代表のほかにラトヴィア、エストニアの代表も招かれていた。これは、事実上、ソヴィエト政府がバルト3国のロシアからの分離独立を認めたことを意味していた。
トマス・ナルシェヴィチウスを代表とするリトアニア代表団は、ソヴィエト政府に対して、現在再建されたリトアニア国家と、かつてのリトアニア大公国との歴史的連続性を認めること、および、平和条約とは別個に独立国リトアニアを認める文書の作成を要求した。しかし、これは拒否されたが、その一方で、ソヴィエト政府代表アドルフ・ヨフェは、リトアニアの国境は民族的境界を基礎に画定されるべきであるという原則を認めた(3)。
領土問題が交渉の大部分を占めたが、問題とされたこれら地域の一部は、この時、ポーランド軍が占領していたから議論は長引いた。しかし、ソヴィエト側はリトアニアの要求の大部分をうけ入れる用意があるとした上で、グロドノとリダをリトアニアに割り当てるから、ポーランドとの戦いに軍事同盟を結ぼうと提案してきた(4)。この頃、既に「ポーランド=ソヴィエト戦争」が始まっていたから(5)、リトアニアは難しい選択を迫られたが、リトアニアはこの提案を拒否した。その結果、交渉は堂々巡りしたが、結局、リトアニアの領土的要求の大部分がうけ入れられ(6)、1920年7月12日、平和条約が締結された。
この条約の締結はリトアニアにとって大きな外交的成果であったが、その代償は大きかった。というのは、この条約の第2項の補足で、ソヴィエト政府がポーランドと交戦状態にある場合には、ソヴィエト軍がリトアニア領内に入ることを認めていた。これは明らかに当時ポーランドと戦っていた赤軍に便宜をはかるものであった(7)。
この第2項の補足を盾に、リトアニア領内に侵攻した赤軍は、北西と北東の両方向からヴィルニュスに迫ってきたため(8)、7月13日、ポーランド軍はヴィルニュスを放棄して撤退した(9)。しかし、入れ替わりにヴィルニュスに入ろうとするリトアニア軍を乗せた列車が途中でポーランド軍によって阻止された。これによって、リトアニア軍がヴィルニュスに到着するのが遅れたが、その間に、赤軍が一足先にヴィルニュスに入っていた(10)。
ヴィルニュスに居座る赤軍に対して、リトアニア政府はモスクワで調印された平和条約を盾に、ヴィルニュスの返還を執拗に迫った。その結果、1920年8月6日、ソヴィエト政府はヴィルニュスをリトアニアに引き渡す文書に署名した。しかし、実際に赤軍がヴィルニュス地域から撤退したのは8月26日であった(11)。
〔蛇足〕
(1)「余談:ベルモント軍との戦い」参照。
(2)ソヴィエト政府は、これと並行して、前年(1919年)末より、ポーランドとの和平交渉も始めていたが交渉は不調に終わり、1920年4月末から再びポーランド軍と赤軍の戦いが西ウクライナで始まるのだが、これ以後の戦いを「ポーランド=ソヴィエト戦争」と呼んでいる。
(3)これをうけて、リトアニア代表団は、ロシア帝国時代にロシア領であったヴィルニュス(Vilnius)、カウナス(Kaunas)、スヴァウキ(Suwalki)、および、グロドノ(Grodno)の各州はリトアニア領であると主張した。この主張の基礎には歴史的なバルト族の居住範囲に対する認識があったが、それだけではなく、これらの地域に住むベラルーシ人やユダヤ人の多くがリトアニアの統治下に入ることを希望していたという背景もあった。これは、パリ講和会議の舞台裏でリトアニア代表団が連合国側に訴えていた主張と整合性をとったものであった。
(4)これは奇妙な提案であった。グロドノ(Grodno)は州だが、リダ(Lida)は州の名ではなく、ロシア帝国の区割りでは、ヴィルニュス州の南部地域にある都市の名であるから、この言葉の意味することの不明瞭さにリトアニア側は注意した。ソヴィエト政府は、リトアニアがこの提案に同意してくれれば、領土問題を含む殆ど全ての懸案事項は短時間のうちに解決するとして、リトアニア側の同意を促した。
(5)「ポーランド=ソヴィエト戦争」は、この年の4月末にポーランド軍の西ウクライナ侵攻によって始まった。初戦で優勢なポーランド軍はキエフまで侵攻したが、その後劣勢となり、首都ワルシャワが陥落寸前の状態に追い込まれた。しかし、8月中旬に連合国の支援物資が到着し、ポーランド軍は「ヴィスワの奇跡」と呼ばれる奇跡的な逆転に成功した。撤退を余儀なくされた赤軍は、その後、休戦交渉を進め、翌年3月に調印された「リガ条約」をもって決着した。
(6)ソヴィエト側は、スヴァウキ(Suwalki)、アウグストフ(Augustow)、グロドノ(Grodno)、および、ヴィルニュス(Vilnius)の諸州とリダ(Lida)をリトアニア領と認めた。
(7)リトアニアにとって致命的な問題となった「条約第2項の補足」は、当時、モスクワにいたリトアニア代表団とカウナスの政府との間の通信連絡の不備から生じた失敗だったと説明されているが、真相は不明だ。
(8)「ポーランド=ソヴィエト戦争」における北部戦線では、リトアニアとの平和条約が締結される1920年7月12日より前の7月4日から赤軍が大攻勢に転じ、7月7日には、リトアニア北部の町トゥルマンタス(Turmantas)を占領し、7月9日には、さらにリトアニア領内を南西に進撃してタウラグナイ(Tauragnai)とアランタ(Alanta)を占領している。したがって、赤軍は平和条約締結後に「条約第2項の補足」を利用してリトアニア領内に入ってポーランド軍を敗走させたのではなく、条約の発効を見越して、それ以前から行動を起していたのだ。
(9)7月にベルギー東部の保養地スパ(Spa)で開かれた連合国最高会議において、ウクライナにおけるポーランド軍と赤軍の戦闘を止めさせる調停が決議された。それは結局失敗に終ったのだが、その中で、ヴィルニュスはリトアニアに帰属するという連合国側の意向が示された。当初、ポーランドはそれを認めなかったが、英国首相ロイド・ジョージの圧力に屈してこれに同意した。ポーランド軍は、この「スパ会議」の約束を履行するという名目で、ヴィルニュスから撤退して行った。
(10)ヴィルニュスにリトアニア軍が先に入ってくれば、撤退中のポーランド軍と衝突が起る恐れがあるので、そうした混乱を避けるために、赤軍が先にヴィルニュスに進駐するように図ったのだとポーランド側は言い訳した。
(11) 実際は、8月半ばにポーランド軍が反撃に転じて大攻勢をかけてきたため戦況が逆転し、赤軍はヴィルニュスを放棄して撤退せざるを得なかったのだ。
(2014年4月記)
2014年4月16日 記>級会消息