• 最近の記事

  • Multi-Language

  • リトアニア史余談26:不幸な争い/武田充司@クラス1955

     1919年1月5日、リトアニアの首都ヴィルニュスを制圧した赤軍は、同年2月、「リトアニア・ベラルーシ社会主義共和国」の建国を宣言したが(*1)、この間にパリ講和会議が始まっていた。しかし、この講和会議の席にリトアニア代表は招かれなかった(*2)。

     ところが、3月になると食糧や医薬品を携えた米軍使節団がリトアニアにやってきた。フランスや英国の使節団も、それに続いてやってきた(*3)。赤軍に奪われた首都ヴィルニュスの奪還をめざすリトアニア政府軍は、こうした国々の好意に勇気づけられ、4月になると赤軍撃退の戦いを開始した(*4)。

     一方、ポーランド軍も大規模な赤軍撃退作戦を展開して北上してきた。リトアニアとポーランドの両軍は赤軍を挟撃する形でヴィルニュスに迫ったが、4月

    19日、強力なポーランド軍は一足先にヴィルニュスに入った。あとからやって来たリトアニア軍は、4月26日、ヴィルニュス西方でポーランド軍と衝突した。これが、その後長く続く両国の不幸な争いの始まりであった(*5)。

     リトアニア軍は、ポーランド軍との本格的な衝突を避けようとしたが、それでも、その後、両軍の間で小競り合いが散発的に起こった。無益な争いを回避するために、リトアニア政府は5月末から6月にかけて、臨時首都カウナスにおいてポーランド側と話合いをもったが、かつてのポーランド・リトアニア連合王国の再現を夢見て独立国家建設を目指すポーランドと、バルト族の民族国家リトアニアの建設を目指すリトアニアとの対立の根は深く、交渉は平行線をたどって膠着した。

     結局、リトアニアは、紛争の調停を連合国に期待して、両国間の国境画定を連合国に要請した。8月3日、国境線(案)がリトアニアに示されたが、その案では、ヴィルニュス地区はポーラン領となっていた(*6)。ところが、その同じ日に、ポーランドの外交団がカウナスを訪れ、係争地域の帰属を住民投票で決めようという提案をしてきた。リトアニアはそれを拒否した(*7)。

     それから1ヶ月も経たない8月末、カウナスにおいてポーランド人のクーデター計画が発覚した。慌てたリトアニア政府は、やみくもに容疑者を逮捕してクーデターを未然に防いだが、ポーランドとの関係は悪化した(*8)。一方、劣勢を認めた赤軍は、9月11日、ポーランドとリトアニアに和平交渉を提案してきた。そして、9月26日には英国がリトアニア政府を事実上承認したとういうニュースが入ってきた。暗雲の切れ間から一条の光が差し込んできたようなこの朗報に、リトアニアの臨時首都カウナスは歓喜する群集の熱気に包まれた(*9)。

    〔蛇足〕

    (*1)「余談:トロイの木馬」参照。

    (*2)パリ講和会議はこの年の1月18日から開かれ、ポーランドは会議に招かれたが、リトアニアは招かれなかった。しかし、リトアニア政府はパリに代表団を送り、会議の外で活発な外交活動を展開した。

    (*3)リトアニアは、こうした軍事使節団のカウナス訪問をリトアニアの独立を彼らが暗黙に認めたものと解釈し、彼らを歓迎した。しかし、彼らはボリシェヴィキの革命が西欧にまで及ぶことを恐れ、赤軍と戦うリトアニアを支援しようという現実的な動機で行動していた。

    (*4)リトアニアでは、この年の3月5日に徴兵制が布かれ、正規軍の編成が始められた。

    (*5)ボリシェヴィキ政権のロシアと独立したポーランドとの間で、国境線は曖昧なまま放置されていたが、多くのポーランド人は昔の大ポーランド時代の国境線の復活を望んでいたから、ヴィルニュスを赤軍の手から解放したポーランド軍は、リトアニアの臨時首都カウナス方面に向かってさらに西進する一方、赤軍との戦闘を東部全域に拡大し、8月までにはベラルーシの大部分を占領した。

    (*6)6月18日に連合国側から最初の国境線案が示されたが、リトアニアとポーランドを分ける線は、ワルシャワからヴィルニュスを経てペテルブルクに至る鉄道の西方5km付近を南北に走っていた。したがって、ヴィルニュスもこの重要な鉄道もポーランド側に含まれていた。これは、当時のリトアニアとポーランドの軍事境界線の現実を考慮した提案であったが、ポーランド軍は、これを認めれば、東方に約35kmも撤退しなければならなくなるという理由でこの提案を拒否した。リトアニアも、グロドノ(Grodno:現在はベラルーシの都市)と首都ヴィルニュスがリトアニア側に含まれていないこの案を認めることはできなかった。そこで、連合国側はさらに協議した結果、修正案がフランスのフォッシュ元帥によって作成され、これが8月3日にリトアニアに示された。この2度目の国境線案は、提案者の名をとって「フォッシュ線」(the Foch Line)と呼ばれているが、この「フォッシュ線」はポーランドの言い分をかなり受け入れたもので、最初の提案線よりも更に西に約7kmずれていた。その上、それまでリトアニア軍が支配していたスヴァウキ(Suwalki)地方がポーランド領になっていた。おそらく、ポーランドに好意的なフランスの意向が反映された結果の修正案だったのだろうが、このとき、ポーランド軍は以前よりさらに占領地域を拡大していたため、この案でも、彼らはヴィルニュス州の西部地域などから撤退することになるので、ポーランドはこの案も拒否した。リトアニアも、当然、この案を拒否した。なお、この「フォッシュ線」の提案は7月27日に出されていたが、リトアニアに伝えられたのは8月3日であった。おそらく、ポーランドはリトアニアより先にこの修正案を知らされていたのだろう。

    (*7)長く続いたポーランド人優位の社会で、当時のヴィルニュスには比較的裕福なポーランド人が多く住み、リトアニア人は人口密度の低い貧しい農村部に多かったから、住民投票はリトアニア側に不利だった。

    (*8)8月3日のポーランド外交団のカウナス訪問は、クーデターの準備状況を密かに点検す目的もあった。クーデターがポーランド系住民に支持されて成功すれば、カウナスに親ポーランド政権を樹立して、リトアニアのポーランドへの併合を実現しようという計画であった。

    (*9)強いドイツの復活を恐れるフランスは、向こう側のポーランドが安定した友好国となってくれることを望み、また、ボリシェヴィキの南下を食い止める防波堤としてのポーランドの役割も認識していたから、ポーランドには好意的で、リトアニアの分離独立には冷淡だった。一方、英国は地政学的にも比較的中立で公平な立場をとることができたから、こうした動きになったのであろう。

    $00A0$00A0$00A0$00A0$00A0$00A0$00A0$00A0$00A0$00A0$00A0$00A0$00A0$00A0$00A0$00A0$00A0$00A0$00A0$00A0$00A0$00A0$00A0$00A0$00A0$00A0$00A0$00A0 (2014年2月記)

    コメントはまだありません »
    Leave a comment

    コメント投稿後は、管理者の承認まで少しお待ち下さい。また、コメント内容によっては掲載を行わない場合もあります。